2016年3月30日水曜日

熊本より孫たち上京

27日、羽田空港に車で迎えに行く。P1に停めるべきだったが、P2に停めたので少し歩くことになった。しかし、ひなたは元気に走り回り、丈二は大人しく寝ていた。
恵比寿アトレの屋上でももやたちと遊ぶと言う。恵比寿に連れて行って降ろしたし、大きなトランクは家に運んであげた。
写真は29日ディズニーランドで孫4人

病院で15名ほど回診し帰ると、部屋中布団が敷いてあり、孫たちは寝るところだった。ちゃぶ台を片隅において、夕食をとった。 

2830日、28日は午後から天気がくずれるという天気予報だったが、長男一家、長女母子、家人はディズニーランドに行く。






小さい孫二人はもっぱら見学だったろう。写真はパレードを観るさくや。







すごい人出だったようだが、幾つかの乗り物に乗り、逞しく食事もしてパレードもしっかり観てきたという。一番楽しんだのは、娘と嫁かもしれないが・・。
自分は20時過ぎに帰ったが、その途端雷雨になった。天気が夜までもってくれた。



29日は国立博物館で大恐竜展を観て、上の動物園に行ったと言う。大満足の2日間だったようだ。

30日、熊本に帰る。急に寂しくなったが満足そうな孫の顔を見たので自分も満足、久しぶりに鍋料理を作り、TVを観ながら夕食をとった。

2016年3月26日土曜日

熊本での花見

26日、今日は東京に戻る。Alexから送られてきたFinal draftを印刷しようとするが、インクが切れていたので買いに行く。ついでに桜の見処の八景水谷公園に寄った。未だ二分咲きが多いのだが、一本だけ八分咲きの桜の木があった。

桜の花見の代わりに桜餅を買って食べた。
この休暇中、友人や親戚たちと良く食べ良く飲み良く話した。真田三代や真田太平記、五代友厚に関する資料を読んだりTVも観た。Alexと取り組んでいるレポートに関する資料を念入りに読んだ。が、何か一つ足りない。これは東京に戻って直ぐに取り掛からねばならない。

明日の日曜日には娘母子と家人が上京する。30日に熊本に帰るまでディズニーランドや上野動物園に行くと言う。狭い自宅に5人が暮らすがそれもいいだろう。

2016年3月25日金曜日

孫を抱く

25日、午前中はAlexの質問への答えを書く。昼はおじやで胃腸を休めた。夕から北バイパスを走る。北高周りの桜はまだ開花した
ばかり。中には2分咲きの桜もあったが。
夕食は娘のところに行き孫たちと対面。ひなたはビデオのどらえもんに夢中で、丈二愛想良く抱かれ床に下ろすとハイハイし伝い歩きもする。



お鮨とピザと、野菜サラダをつまみに、ビールと芋のお湯割りを楽しんだ。

 

2016年3月24日木曜日

鹿児島へ

24日、11時の高速艇で鹿児島に向かう。大隅海峡でクジラが泳いでいた情報があったとのことで、海峡通過時は減速していた。




佐多岬と開聞岳が同時に写真に撮ることができた。





また鹿児島のシンボル桜島も撮ることができた。
叔母が暮らす有料老人ホームに寄った。叔母は喜んでお鮨や煮しめを準備していてくれた。
家人の実家に寄って墓参り、義母が入居している老健施設に行って見舞った。体調が良くなって食欲もあり、ほとんど正常に会話ができた。
タクシー、電車、新幹線を乗り継ぎ熊本へ。新幹線熊本駅には大きなクマモンが迎えてくれた。

2016年3月23日水曜日

種子島でゆっくり

23日、レンタカーを返却したので、一日勉強。Alexのレポートを熟読し、質問が送られてきたので事細かに答えた。後は彼がオランダの指導教官に送ればOKとなるが。
昼は従弟が「風の街」というレストランで昼食。豚肉のしょうが焼き定食などを注文して食べたが、なかなか美味しかった。




夜は種子島ライオンズクラブの例会に出席した。年に2回だけだが、種子島在住の方とたちと知り合えるので楽しい。

幼馴染の阿世知さんたちとカラオケスナックで二次会をしたが、11時過ぎにはちゃんとタクシーで帰ったようだ。

2016年3月22日火曜日

帰省 して大掃除

22日、何時かしようと思っていた布団の整理を始めた。20年近くほとんど使っていない布団や毛布の中にはシミが付いたりしたものもある。8組ずつ冬、夏用の寝具を選び、残りは種子島清掃センターのリサイクルに持って行った。レンタカーで2回に分けて運ぶ。車ごと計量し、空になった車を再度計量する。その差が不要物の処分料金になる。全部で500円だった。
昼食は、従弟たちと「とっこちゃん」という弁当屋さんで定食を食べた。この日は野菜カレーの日で、みそ汁、ヨーグルト、他に2品ついている。カレーのご飯は雑穀米。これで500円には感激した。残念なことに写真に収めるのを忘れている。
午後からは、ボーリング場の跡地にできた大型雑貨店で物干し、枕、電球、防虫剤、柄杓などを購入した。前日やり残した墓掃除、墓の敷地内の草取りをした。
親戚への挨拶、知り合いのお見舞いなどをして、レンタカーを返却した。

夜は「しろう」で従弟たちと夕食。

2016年3月21日月曜日

月窓亭

21日、午前中に種子島開発総合センター鉄砲館と月窓亭(げっそうてい)の見学に行った。鉄砲館は種子島に来られた友人を毎回案内している。しかし、記憶があやふやだったことが明らかになることも多い。


月窓亭は1793年に建造された旧武家屋敷で、明治19年に旧種子島家の家臣たちが第27代種子島守時公を種子島に迎えここに住むようになったという。今は所有者の転出で西之表市が保存、活用している。
ここでボランティアの方々からのお茶やお茶菓子の接待もある。2階に行くと旧赤尾木城が正面に見える。
庭には5本射的のコースがあり、早速挑戦した。3本命中したので6割の命中率。イチローより打率が良い。

昼食は鶴瓶さんも訪ねてきてTVにもでた風車でとり、皆さんを港に送った。

午後からは、花を買ってお墓参りに行った。
夜は華水木という居酒屋で従弟、親戚や友人と夕食を共にした。

2016年3月20日日曜日

種子島ロケットマラソン完走!

20日、種子島ロケットマラソン当日。朝食の後、家人の運転でスタート地点に行く。塚本さんはハーフマラソンを走るので、送迎バスが出発する西之表体育館で降り、後はフルマラソンのスタート地点になっている緑の回廊公園に行った。
既に当日受付と荷物預かりが始まっていた。TV局のインタビュアーがいたが、我々へのインタビューはなかった。「だいか おっさって」と背中に書いているTシャツを着た人が数人いた。鹿児島弁で「どなたか背中を押してください」の意味。

火縄銃の発射でスタートする。今回は全く余裕がないのでスタート前とゴールの後にだけ写真を撮ることに決めていた。



種子島ロケットマラソンは今回が29回目、自分は第16回前後に3回参加している。その頃は、エイドも応援も少なかった。参加者は1200人前後(フルは200300人で2㎞ファミリーや3㎞への参加が多く、10㎞やハーフの参加者は100名前後だったようだ)、今回は1825名の参加でフルは390名の参加。3時間30分、4時間、4時間30分のペースメーカーが付く。しかし制限時間は6時間で先月の熊本城マラソンの記録6時間30分では失格になる。自分は6時間のペースメーカーになりきって走ろうと思った。

種子島は南北57㎞で面積は琵琶湖より小さい。海抜282mが最高だが、コースは起伏に富んでいる。ほぼone wayで東シナ海側の能野から太平洋側の種子島宇宙センターまでがコースになる。

さて、今回はエイドの充実と沿道の応援の多いことに感激した!キロ数の表示も完璧で1㎞毎にあり、エイドの手前500mにはあと500mでエイドの表示まであった。

釘島さん父娘は、スタートと共に先に行ってしまった。ひたすら一人旅かと思ったが、多くのランナーから声をかけられた。気持ちの良い追い風と応援の人たちからの声掛けで何度も力をもらった。

28㎞地点で家人の車に追い越されたがすぐ先で待っていてくれた。収容車は来ているか?と尋ねたら、まだずーっと後ろまで沢山ランナーが走っていると言う。あと14㎞を2時間で走らねばならない。しかし、気温の上昇は自分にとってはまた追い風だ。最難関のダッチェ坂には山桜が咲いていたが眺める暇もなかった。

ビックリポンがもう一つ。チップを付けているのだが、関門もなければ途中のチェックポイントもない。







5時間5041秒でゴール。ゴール250m前にはずっと先にゴールした仲間のランナーが声援をくれた。ゴール地点には家人が待っており。28㎞の様子から途中で棄権しているか収容車に乗っているのでは?と思っていたそうだ。
うどんを美味しく平らげ、皆で帰ったが、目を疑うことがもう一つあった。制限時間を過ぎているのにまだ走っている人が大勢おり、その最後尾から収容車がのろのろ付いてきていること。おおらかな大会だと思いうれしくなった。
途中千座(ちくら)の岩屋に寄って記念写真、町営温泉で汗を流した。
夕食は七輪焼き・魚や肉のボリュームも多く、全員完走なので前日控えていたビールや焼酎もたくさん飲んだようだ。

2016年3月19日土曜日

種子島へ ロケットマラソン前日

19日、早起きして羽田へ。鹿児島空港からリムジンバスで鹿児島中央駅、ここで家人と待ち合わせてバスで種子島行高速艇が出る南埠頭に行った。ここでてれっとウルトラマラソンクラブの釘島さん父娘、塚本さんと合流し、種子島に向かった。

西之表港でレンタカーを借り、自宅に荷物を置いて、掃除の家人を残し他の4人は翌日の種子島ロケットマラソンの受付とコースの下見に行った。思った以上に(知ってはいたが)坂が多くタフなコースだ。ここ6時間以内に走破せねばならない。

夕食は「和」、数が制限?されている定食は一人2700円だが刺身のボリュームも満点で、東京なら一人1万円以上はしそうな料理だった。食べるのに忙しく写真を撮る間もなく食べ尽くした。

2016年3月18日金曜日

休暇前日と送別会

18日、明日から「夏休み」で種子島に帰省する。加えて2021日は連休。今日はしっかりとできるだけ多くの患者さんの回診をせねばならない。回診を予定していた患者さん及び不安定になった患者さんを回診を進めた。17時半から来週には在宅に行かれる患者さんの退院時カンファレンスに出席した。移動時の鎮痛薬の投与経路とポンプの準備などをした。電子カルテを見ると、新しく対診依頼の患者さんの申し込みが入っていた。全て診察し、電子カルテに所見と推奨事項を打ち込んだ。S森Nrs。は最後まで一緒に回診についてきてくれた。19時半になっていた。感謝。
19時から始まっている麻酔科の送別会に行った。会場がT医科大隣のヒルトンホテルなので助かった。







今日の主役の〇林先生は先日名古屋国際ウイメンズマラソンを完走した。ママさん麻酔科医として後輩たちに道しるべを残した。〇林先生は同級生に恵まれた・・。



La先生は、眼科医に転身すべく、新たな勉強を始める。





歯科大学から来られていた町〇先生、Y口先生、〇駒先生は再び歯科麻酔科医としての研鑽を続ける。




家に帰り荷物を整理し、風呂に入って洗濯をした。干すのは明日にしよう・・・。もう1時半になっていた。

2016年3月17日木曜日

東京江東クラブ3月本例会

17日、東京江東クラブの3月本例会で卓話をすることになった。用意周到に準備し、交通ナビで西新宿から石島までの乗り継ぎシュミレーションも済ませた。気温が上がり、コートは病院に残して出かけた。西新宿発の丸の内線は一電車遅れたが、四谷で総武線に乗り換える際走ってJR総武線プラットホームに移動したので、遅れは取り戻した。錦糸町で降り、南口のバス停に行った。13番系統は1番乗り場。バスに乗り込むとき石島に泊まることを確認した。
バス停前藤井元国際会長が出迎えて下さった。東京YMCA江東コミュニティーセンターの会場に行き、パワーポイントの準備を始めた。筆記用具をコートの中に入れたままだったことを思いだした。ペンはYMCAスタッフにお借りした。

テーマは「緩和ケアとアドバンス・ケア・プランニング」。学生講義、これまで二回行った公開市民講座、緩和ケア関連研究会で話したことの集大成であり毎回改定している。終了後には沢山お質問もいただいた。大先輩の会員さんもおられ、あらゆるがんを経験したベテランサバイバーもおられる。笑うことも多かった話しになった。

終了後、二次会会場近くの「中華料理屋さんで餃子をいただきながら、ビールや紹興酒を楽しんだ。また話題が膨らみ楽しい小一時間だった。

S原さんに錦糸町駅まで送っていただき、藤井さん本間さんと総武線に乗った。途中皆さんと別れ、座ったのが間違いだった。気づいたのが吉祥寺。引き返して帰り着いたのが翌日の030分だった。

2016年3月13日日曜日

次期会長・主査研修会2日目

13日、6時には起きて淀川大堤防を走った。雲の間から朝日を確認した。種子島ロケットマラソンに向け、時々スピードランを加え約4㎞の朝ランを終えた。



早天礼拝では江見チャプレンから「わたしと一緒に立ち上がれ」のタイトルで、ヨハネによる福音書181-8節の解説と、キリスト教主義幼稚園でのこどもへのお話し、チャプレンのお母様の思い出などを話してくださった。38日の朝日新聞に掲載された「社会的ケア:心療内科医桑山紀彦氏」の紹介があった。災害などの被災者ケアの社会的ケアのステップ1は体験をいただく。ステップ2は記憶の断片を繋ぎ、記憶を物語にする。その物語を自分の中から出し入れできるようにする。ステップ3は自分の体験が社会に役立つことを理解し、生きる意味を見出す。ということのようだ。
午前中のレクチャーの後、各部に分かれての話し合いとなった。参加者の自己紹介に続き、宮崎次期九州部長の方針発表があった。午後からは各次期クラブ会長から次期の方針や計画が、各事業主査から各事業の計画などの発表があり活発な討論意見交換があった。

予定の1515分には研修会が終了し、1603の新幹線で東京に戻った。

ワイズメンズクラブ次期会長・主査研修会

12-13日、ワイズメンズクラブ西日本区の次期会長・主査研修会が大阪で開催された。

開会および閉会の祈りとキリスト教理解講座A(初心者、ノンクリスチャン対象)、日曜日の早天礼拝の司会が自分の役割になる。写真は次期役員集合挨拶。
 
12日は早速20分の時間を最大限有効に使い、キリスト教理解講座を行った。講義の時間が短いので詳しい資料を付けた。受講者には資料に下線やチェックを付けてもらい、不足することや十分理解できなかったことは後で読み返しできるようにした。

懇親会で九州部の部長さんたちと同じ席になった。鹿児島クラブの松若会長が高校の先輩ということが分かった。直ぐに水元次期書記、木佐貫次期事業主査を呼び、4名で校歌「はろばろと」を歌った。周りにいた人たちは感心して聞いていたようだ。

2016年3月11日金曜日

交換留学生指導

11日、オランダのユトレヒト大学からの交換留学生アレックスが6週間の留学期間を終える。最後の2週間は「Dutch and Japanese perspectives on ethics and law in end-of-life care in the intensive care unit.」のタイトルでレポートの作成を指導した。約35000文字の立派なレポートができ、いくつかの詰めの作業に移っている。彼は12日から京都、広島、長崎を旅行し、26日に日本を発つ。日本にいる間には完成するようにしばらくはメールでのディスカッションが続く。
それにしても英語でのディスカッションは大変きつかった。彼から「Dr.Tの英会話が日に日に上達してきた」と言われた。
Alex. Let’s have a discussion in the staff room!」と言う相手がいなくなったのは寂しい。アレックス~!

写真は10日にU野先生から研修修了書を送られたアレックス・

2016年3月9日水曜日

区西部緩和ケア連携推進運営会議

9日、KO大学で区西部緩和ケア連携推進運営会議が開催された。この一年間の活動の報告や会計の確認、次期への展望などを話し合った。

先の3年間の経験があるので各部会の活動もスムーズになってきている。自分の役割は、多職種の参加と病・病、病・診連携、切れ目のない緩和ケアを推進できるような環境を作ることと考えている。会議では多くの意見を引き出し、効率の良い議論を進めていく。今回も1時間以内で終了した。

2016年3月5日土曜日

謝恩会

5日、T医科大学の卒業式が午前中に挙行され、夕からKOプラザホテルで謝恩会が開催された。毎年5年生の実行委員会から招待状をいただく。昨年出ていないので今年は参加した。写真はKOプラザホテルロビーに飾られたお雛様。

教官は来賓席のテーブル席で椅子に座れるが、学生と父兄の皆様は立食。卒業生代表の挨拶に「100周年の卒業生に課せられた国家試験100%合格」のスローガンがストレスであったが、それでかえって同級生の絆が深まった」という言葉あり、参加者の共感を引き出していた。また父兄代表の挨拶には、「国家試験100%も大切だが、留年者を出さない教育にも力を注いでほしい」があった。1年間の授業料は無視できない。
T医科大学の校風の一つにバンカラがある。応援団のある医科大学は少ないかもしれないが、卒業式や謝恩会での応援団の演武はとても素晴らしく、参加者と一緒に歌う効果の時には自分の卒業大学でないのに目頭が熱くなる。



相談教員で付き合いのある二人の学生が挨拶に来てくれた。二人ともT医科大で初期研修を始めるようだ。




二人の飛躍と差し迫った国家試験合格発表を祈りたいと思う。

診断時からの緩和ケア

5日、日本緩和医療学会が主催する「診断時からの緩和ケア」に関する講演会とパネルディスカッションが新宿で開催された。2012年のがん対策推進基本計画における重点的に取り組むべき課題で「がんと診断された時からの緩和ケアの推進」が、なかなか浸透していない。がん患者さんの団体代表の方も二人参加されて熱い討論もあった。
細川日本緩和医療学会理事長が言われていた、「このような会を開催しても、参加される方々は緩和ケアに理解のある方がほとんどで、是非参加して学んでほしい方の参加が得られていない」はその通りと思った。

2016年3月1日火曜日

月初めの火曜日

1日、朝のカンファレンスでは初期研修医セミナーとして術前評価を講義。留学生のAlexと手術室の3部屋ほど見学し実習もしてもらった。ICUに入室している緩和ケアチームが介入している患者さんと、病棟の二人の患者さんを一緒に回診した。今から雪国に行くと言うと、寂しそうにしていた。しかし明日までの課題をあげたので、きっと今日はタフな一日になるだろう。
今日は関東は晴れ渡り、富士山がきれいに見えた。





越後湯沢の雪は少ないが、浦佐では吹雪いていた。長岡や燕三条も雪だったが、今日はそれほど積もらないだろう。
20時過ぎには、クリッピング手術後の患者さんをハイケアユニットに無事に帰した。二半亭に1時間と少々いて新潟の味覚を楽しみ自分へのご褒美とした。帰りの新幹線では仕上げねばならない仕事が一つあったが・・。