2011年12月31日土曜日

大晦日

元旦の天気予報は曇りところによりにわか雨。初日の出は拝めそうにないので、朝日を写しにK高に向かった。既に太陽は昇っていたが・・・。
「大晦日朝日に感謝この一年」
 午前中は買い物、午後から掃除の指令が出た。鶴屋のフーディーワンでお正月の食料買い出し。詰め放題一袋250円のミカンがあったが、小ぶりのミカンを選ぶのがコツで袋にたくさん入る。家人の軽乗用車をガソリン満タンにし灯油も買ってきた。
ひなちゃんちに行って、U太君とひなちゃんへプレゼントを届けた。ひなちゃんは昨夜のお風呂を思い出してジージの顔を見て泣いたが、U太君はとっても喜んでくれた。写真はU太君のご両親から贈られた破魔弓。
 高校サッカーでは熊本県代表のルーテル学院が惜しくも清水商業に敗れた。なでしこジャパンの特集を時々観ながら、昔の写真の整理を始めた。懐かしい写真が次々に出てきた。アルバムに整理できなかった写真も多い。これはという写真を選んだ。持ち帰ってパソコンに整理しようと思う。
次男が夕食を食べ始めたので、加わった。食べ終わって、次男と家人が「お父様のおかげで今年も一年過ごせました。お疲れさまでした・・」と言った。「家族がいるから頑張れたのです。」とお礼を言った。
 紅白歌合戦が始まった。バックグランドミュージックにして、一年の振返りを始めた。

 1月1日娘婿のU太君と新雪の中を三社詣り約25kmのラン初めでスタートした。2月11日熊本むさしクラブと京都みやびクラブのDBC交流が新燃岳の麓、霧島温泉で開催された。霧島温泉はほとんど影響を受けていなかったが、お客は激減したとのこと。観光協会副会長の中〇さんには大変お世話になった。3月11日、外来を終え待合室を通っている時、テレビに想像を絶する大津波のシーンが映っていた。東京に住む息子や親戚に連絡を取ったが、夜遅くになってやっと携帯がつながった。日本人力を信じ、東北大震災復興への募金活動に奔走した。4月23日娘に長男「陽太」誕生。この日は熊本大学麻酔科学教室で自分のT医科大学麻酔科学講座教授就任祝いをしていただいた良き日でもあった。30日熊本空港で恩師森〇先生ご夫妻の見送りをいただき、5月からT医科大学で58歳の挑戦が始まった。6月4日阿蘇スーパーカルデラ100kmマラソンに挑戦、13時間28分23秒で最下位ながらも完走。ちなみに完走率は60%前半だった。
 7月17日、なでしこジャパンの女子ワールドカップでの優勝は、自分のみならず日本中に喜びと希望を与えてくれた。優勝の瞬間、鳥肌が立った。7月20-23日、日本ペインクリニック学会で松山市へ出張。正岡子規、坂の上の雲、夏目漱石、伊丹十三など、松山には魅力あふれる施設や物語があった。8月18-20日愛車をフェリーに乗せて東京へ。船旅は楽しかったが、初めての首都高速は緊張した。9月10日姪のCちゃんが結婚。幸せになって欲しい。また一緒に走ろうね。10月15日、日韓YMCA医師蹴球親善交流が釜山で開催された。試合開始5分、右足首をひねった。痛みをこらえながら、残りの時間を走り続けた。帰国後整形外科受診、右脛骨外顆剥離骨折の診断を受けギプス生活となった。11月2-5日、日本臨床麻酔学会で沖縄に出張。ギプスのままの学会出席は恥ずかしかった。26日は熊本一鶴会(高校の同窓会)が熊本で開催。会長の役目を世話人のみなさんの支えで果たすことができた。12月、例年のように忘年会に参加していた。西武新宿線や山手線はよく行ったり来たり(座ると直ぐに眠ってしまう)した。
 心配していた単身赴任も、料理を作る楽しみが何とか解決してくれそうだし、U先生や講座のスタッフたちとの夕食(飲み会ばかりではない)、長男一家(ももちゃん)との交流は自分を癒してくれた。東京に転勤したことで患者さんや前任の病院には随分迷惑をかけてしまったが、自分自身も勉強でき若い先生たちや学生さんたちを育てる楽しみでリフレッシュできたと思う。
 今年の紅白歌合戦のテーマは「あしたを歌おう」、東北大震災をきっかけに見つめなおされている「人と人との絆」を示すシーンが流れる。その度に目頭が熱くなった。「あなたも涙もろくなったね」と家人に言われたが、そのとおりだと思う。明日は家族が改装なった我が家に揃う。
 「紅白を観ながら思う家族愛」
 「ゆく年が考えさせた命かな」
ブログを初めて丸4年、アクセス数は41850件を超えた。後押しされてブログは続く。

2011年12月30日金曜日

年末帰省

自分にとっての帰省とは正確には種子島になるのだが、家族のいる熊本に4泊5日で帰ることにした。28日はT医科大学・病院幹部?の忘年会があった。他科の先生たちとお話しする良い機会で、中・高時代の同級生だったOさんの弟さんともゆっくり話すことができた。終わって、U先生と「さ〇き」に寄った。今年は大変お世話になった。送ってくださった水仙のことを心配しておられたが、ほぼ満開になり、写真を家人に見せていることを話した。
29日は早朝から年賀状印刷をし、8時には家を出た。羽田空港には9時40分には着いたが、手荷物預かりが混んでいた。途中10時10分までに出発のお客様は・・の呼び出しでショートカットさせてもらい、無事搭乗できた。
空港に着いたら家人が迎えに来てくれていた。F病院麻酔科の高〇先生と会った。娘さんの帰省のお迎えだそうだ。家に帰って昼食後、前任の病院に行った。PCU入院中のMさんを見舞う。一か月間に撮ったデジカメの写真を二人で見ながら、お土産のショコラを食べた。痩せたようだが、2月の再会を約束した。自分が見たこと、食べたことなどを話すと、目を輝かせて聴いてくれる。「お忙しいのにすみません・・」と言われるのだが、自分が励まされていることを実感する。
帰り際、なごみや(行きつけのラーメン屋さん)の大将のお母さんに会った。彼女は病院の看護助手さんとして働いておられる。例年2月の「いちごマラソン」にお孫さんを連れて参加された。自分の大切な走友。
夜は「ひなちゃん」を預かった。よく動く、よく食べる、よく笑う。お風呂に入れたら大泣きした。丁度パパが仕事から戻り、泣きやんだ。しばらくしてママが帰ってきたら、笑っておっぱいを飲んでいた。

30日、K高の周り約2kmをゆっくり走った。足関節の固定装具の上からサポーターをはくとそれほどぶれない。しかし筋力が相当落ちている。5,6回立ち止り歩いた。白い実のなる木があった。近づいて良く見ると、花の蕾のようだ。梅の木だろうか?こぶしだろうか?

昼前から中心街へ。上通りと鶴屋百貨店で買い物。東京の繁華街やデパートとは全く違いゆったりと買い物ができた。デパ地下では「混み合ってきました。迷子やお手荷物には・・」と館内放送があったが、未だ余裕が随分あった。東京のひかりちゃんに大好きな馬刺しを送った。1月5日発送なのでパパの誕生日には間に合うね、パパやママに分けてあげてね。
エビが届いた。
「海老届き正月準備整えり」 ありがとうございました。
夕食前、久しぶりに北バイパス沿いに約8km走った。合計10km/日だった。元旦ランは何とかなるだろう。

2011年12月28日水曜日

ジャズの夕べ

T医科大学の伊〇名誉教授のコントラバスはプロの域にある。伊〇先生のライブが六本木のKNOBであるとのこと、お誘いを受け新潟から直行した。折しも新潟は寒波積雪で在来線は遅れもあったようだが、流石上越新幹線は予定通りに動いていた。
東京駅近くの丸善に寄って、文庫本と医療統計の本を購入した。





六本木へは丸ノ内線で銀座へ、日比谷線に乗り換え六本木へ。前もってネット検索してKNOBの場所はつかんでいた。以前よく宿泊した熊本会館の近くだった。近くには六本木ヒルズがあり、変わりつつある魅力的な街だ。
KNOBには一番乗りで到着した。八王子医療センターの池〇先生も駆けつけ、O教授や医局秘書の光〇さん、嶋〇さんも同じテーブルに陣取った。
専属?のMさんのピアノ、Uさんのフルート、そして伊〇先生のコントラバスのコラボでジャズのオンパレード。間近で聴くジャズは心をウキウキさせる。いろんなことで心配していた濱〇先生も元気そうに来ていたし、遅れて藤〇先生も来てくださった。
今年最後のライブだそうだが、お店の場所が分かったので、また来ようと思う。Mさんがブログで情報を出してくれている。芋洗い坂の牛丼のY家の隣のビルの3階!だった。
今日は、大江戸線と西武新宿線で真っ直ぐ帰宅できた。一流の音楽は心をリッチにさせる。

2011年12月27日火曜日

初期研修医との心温まる懇親会

12月26日、12月一杯で麻酔科研修を修了する初期研修医4名と「さつき」で懇親会をした。4名とも麻酔科以外の診療科に進むことが内定している。しかし全員まじめに2か月間研修に取り組んでくれた。これから試練を幾度となく迎えるだろうが、ぜひ頑張ってほしい。
途中、U先生とF先生の加わり賑やかな会になった。しゃぶしゃぶは美味しかったが、その後オジヤが出たかどうかは覚えていない。
古〇先生には病院まで送り届けるようにお願いし、確か10時代には駅に向かった。どういう訳は都立家政駅には終電車で到着していた。
「飲みすぎて行ったり来たりの西武線」
と思っていたら御用納めの日(28日)に古〇先生から、オジヤは3杯以上食べたこと、10時過ぎには医局に帰り、ワインを飲み始め眠りについたこと。11時30分ごろ起こされ、終電車に間に合うようにと急いで帰ったらしいことの衝撃の真実を聞いた。電車で寝ておらず、医局で寝ていたから少しは成長したようだ。

2011年12月25日日曜日

クリスマス良い話

朝から車を運転して羽田空港へ家人を送っていった。初めての羽田行きだが、前に横浜まで行った経験が生きた。途中ジェットコースターみたいに上方に上るところだけは命が縮む思いがした。
予定より早く、1時間もかからずに到着したし駐車場にもスムーズに入ることができた。出発ロビーは未だ混んでなかった。これから混むのだろう。




ANAの出発ロビーにはクリスマスツリーが飾ってあった。
家人を見送った後、病院に行きICUの患者さんを診て回り締切の迫った書類を完成?させた。小田急デパートに行き熊本への贈り物をお願いした。デパ地下で「肉豆腐」「ブリ大根」「野菜サラダ」を購入し、今日の夕食とした。
病院に停めていた車に乗り自宅へ。が、自宅のカギとセコムのキーがキーホルダーについていないことに気付いた。上着の内ポケットに確かに鍵が付いたまま入れたのは覚えている。病院の部屋を開けて、キーホルダーを机の上に置いた。と言うことは、机の上に外れたキーがあるはず。
病院に引き返した。やはり机の上にキーはあった。時間の無駄になったが、これも勉強だ。急いで家に戻った。「坂の上の雲」の最終回だ。東洋の小さな国が、大変な努力と幸運とにより列強の中に入っていく。その歴史を作っていった偉人たちは、多くが貧しく清貧な暮らしをしていた。
「肉豆腐」「ブリ大根」を温め、ビールを注いだ。
玄関のチャイムが鳴った。お歳暮が届いた。何と水仙の花束。花瓶がないので大きさの適当なゴ〇箱を空にして水を入れた。不在時に届いたので3日遅れ。家人がまだいる時を予測して送ってくださったようだ。写真に撮り、ブログにアップすることで家人には観てもらおう。咲いた時の写真を下に置いた。まだ花は蕾だ。
メリークリスマス!

クリスマスイブ

家人が明日熊本に帰るので、今日は終日お付き合いとなった。ブランチの後、先ずは洗車に行った。思えば5か月ほど愛車を洗っていない。自宅の駐車場に水道栓があったので、次回からは雨の日曜日を洗車の日にしよう。
病院に車を停め、資料整理をして小田急デパートに歩いた。昨日ほどではないが寒い。地下の食料品売り場、特にケーキ・贈答品のコーナーは満員電車さながらの込みようだった。婦人雑貨で家人の手袋、紳士雑貨で自分と次男の靴下と下着を購入しクリスマスプレゼントとした。写真は混み合うデパ地下。
JRで原宿に行き、表参道から青山通りに歩く。表参道のイルミネーションは綺麗だという。陸橋から写真を撮りたいのだが、危険防止のため進入禁止になっていた。午後4時半にイルミネーションが点灯した時に居合わせたので、さっそく写真撮影。



ケーキ屋さんで小田急デパートで買い損ねたショートケーキを買った。「原宿表参道青山通り・・・」こんな歌詞の歌があった。
青山1丁目から大江戸線で東中野に行き、新生教会の燭火礼拝に参加。この教会は昭和16年に母が洗礼を受けた教会のようだ。今度来る時は、牧師さんにお願いして記録があるかどうかを教えたもらおうと思った。




礼拝の後コンサートが予定されていたが、余りにも空腹となったので病院経由で自宅に戻った。帰ったら、佐〇サンタさんが訪ねて来てくれたようで、贈り物が置いてあった。ひかりちゃんとの再会は来年のお楽しみになった。ありがとう!佐〇サンタさん!
近くの店でチキンとカキフライ、野菜サラダを買ってきて夕食となったが、自宅が一番くつろぐ。表参道を歩いた時は、若者の多さに圧倒された。まるでラッシュアワーの電車の中を歩いている感じだった。東中野や都立家政は混んでないので歩きやすい。大都会でも人口密度に濃淡がある。子どもたちにクリスマスメールを送ったが、クリスマスカードを送った家人だけに返信があったようだ。

2011年12月23日金曜日

後輩の家に招待される

大学時代の下宿の後輩から夕食に招待された。数年間同じ屋根の下に住み、良く語り飲んだ。35年前、彼は友人とともに種子島を訪れてくれた。
下宿のおばさんは長生きされたので、何度か一緒に挨拶に行った。自分の結婚式にはギターを持って歌ってくれた。15年前子どもさんを連れて熊本の我が家に挨拶に来てくれた。
ビールの後芋焼酎のお湯割りになった。「先輩が芋のお湯割りを教えてくれた」と言った。その当時は「白波」だった。息子が顔を出し挨拶してくれた。後輩の学生時代に生き写しだったが、もっとイケメンだった(奥様のDNAが奏効か?)。奥様の手料理にも感激した。家人も料理方法を聞いていたので正月料理も一品増えることだろう。
下宿の先輩の息子さんが来春東京の会社に就職されるという。先輩も一緒に3人で飲める機会があるだろう。また青春が蘇る。これまでの人生、出会いだけは大切にしてきた。南越谷駅までおくってもらったが、途中冬桜が咲いていた。
昨日から日本列島は寒波に襲われている。寒い日だったが心は温まっていた。家人から、「あなたの財産は友達だね」と言われた。その通りだ。

忘年会二晩続き

12月21,22日と忘年会が二晩続いた。21日は外来忘年会、手術室が忙しくてなかなか外来には行けないが、数か月麻酔相談外来をさせていただいたしO教授に弟子入りしたい気持ちがずっとあるので、楽しみにしていた。新宿Wホテル近くの中華料理のお店はきれいで料理もおいしかった。
やはり中華には紹興酒・・・、たしか芋のお湯割りは飲まなかった。外来スタッフや秘書さんたちと楽しい会話が弾んだ。店を出たらタクシーが待機していた。このような時は若者を残し老兵から帰るのが良い。


22日は焼き鳥屋さんを借り切っての手術部の忘年会。外科系各科の先生たちと親しくお話しできる良い機会だ。乾杯の後、野菜サラダを少々と焼き鳥を二本食べ、後は各テーブルに遠征した。テーブルごとに各科、各職種のグループができてはいるが、次第にその秩序?はなくなってくる。名前を覚えているはずの手術室の看護師さんの中に、帽子とマスクを外しているために全く名前が出てこなかった人が2,3名いたが、殆どフルネーム分かった。眼科と形成外科の先生たちとはあまり話したことがなかったので、親しくなれて良かった。眼科のG教授が走られていることを知ったし形成のM教授に内々の相談もできた。T医科大の出身ではないので、皆さんが自分の先輩と思ってお話しすると良い。
会場を出て、病院へ向かう途中でも何人かのDrと話しができた。初期研修医のM先生に部屋まで送り届けるようにとの特命を出していたので、歌舞伎町方面に行くこともなく、病院に戻りリュックを背負った。無事に家にはたどり着いたが、良く思い出すとほとんど食べていなかったことに気付いた。
翌日、朝からご飯を二杯食べている自分がいた。

2011年12月21日水曜日

知人と雪

時々業者の方が面会にこられる。今日はある輸液製剤の会社のマーケッティングの方が担当者交代の挨拶にこられた。挨拶をした途端、10年前の青年の頃の高〇さんを思い出した。まさか??と思ったら、やっぱり高〇さんだった。
高〇さんとは行きつけの散髪屋さん「OPA」での顔見知りだ。会社が変わり、熊本から大阪へ、そして東京に出てきたと言う。来年3月一杯まではどうも単身赴任のようなので、東京を案内してあげよう・・・と言っても西新宿周辺の居酒屋やラーメン屋が中心となるが。そしてブログのネタ用に写真撮影した。


 昨日は新潟に行った。関東は晴天で富士山が美しく見えたが、トンネルを抜けて越後湯沢に入ったら雪国に変わった。後ろに座っていた外国人の女性がビデオを写しながら、解説を吹き込んでいた。きれいな英語だったので、どこかの国の旅のレポーターなのだろうか?


埼玉からの富士山と高崎から見る浅間山は冠雪が青空に映え綺麗だった。

2011年12月18日日曜日

代官山

新潟から帰り、掃除洗濯を始めた。明日は家人が熊本から来る。部屋はなかなか片付かないが、家人ほどにはできないのは仕方ないだろう。長男にメールして今から行くと連絡した。ももちゃんは既に昼ごはんは済ませたようだ。
ももちゃんに会うと、家族の一員のように最初から笑顔で甘えてきた。ジッジもちゃんと言える。「年幾つ?」の質問に、手を挙げて「一歳!(と聞こえない訳ではない)」と答えるようになった。
大人は未だ昼ご飯を食べてないので、散歩しながら代官山に向かった。お目当ての店は1時間待ちだったので、違う店に行きイタリアンのおしゃれな昼食を摂った。午後3時を過ぎていたが・・・料理が出てきた時は、ももちゃんは既に夢の世界だったので、あ〇ちゃんはゆっくり食事を楽しむことができた。

帰って、掃除の続き、洗濯物たたみ、夕食の準備、「坂の上の雲」、「サッカークラブ世界一決定戦」などを観た。することが多かったが、18日のうちにブログをアップできたのは良かった。

三〇町病院忘年会

さて11月22日に三〇町病院の「忘年会盛り上げ隊」を結成したことを書いた。盛り上げるには多くのスタッフが参加する余興が必要になる。ここで大切なことは「下ネタは行わない」と言うこと。先週AKB48の踊りを練習しているので、当日は踊りに加わるようにとの要請があった。曲名を聞きそびれたが、動画で検索すると「ヘビーローテーション」しかない!と確信できたので、少しだけ極秘に練習した。
12月17日夕方の新幹線で燕三条に向かう。富士山が茜色に染まって綺麗だ。燕三条駅についたらアラレが降っており、雪も15㎝程度積もっていた。
忘年会の前に、この一年間頑張った職員への表彰式があった。良くスタッフの頑張りや工夫を観察されていることに感心した。
テーブルはM院長と同じだったが、あとは全て若い女性職員だったので自己紹介をしながら出番までの気合をつないだ。ビンゴゲームが始まり、準備の部屋に移った。48人はいなかったが、20名ほどの職員が着替えていた。黒のタートルネックのシャツと白のスカートは借用した。女性用なのでサイズが足らず、後でへそ出しルックになったが・・・。黒のズボン下はそのまま衣装になった。右足関節固定の装具はそのまま着けた。
参加者には、全員で手をつないで笑顔を振りまきながらステージに上がるように声をかけた。ステージの向かい側の壁にはスクリーンが準備されており、そこに踊りの動画が流れた。自分は最前列の右翼に位置した。笑顔を絶やさず、体を大きく動かした。この曲はこんなに長かったのだろうか?
終了して参加者全員で「せーのチャチャチャ素晴らしー!」で締めた。
皆満面の笑顔だった。多くの職員が声をかけてくれた。着替えながら、この病院の忘年会は来年はもっと凄い忘年会になるような気がした。
M院長はビンゴゲームで良いものを当てたようで、自分にもひと箱回ってきた。写真は箱を開け中身を見せているところ。




最後に近くに座った皆さんと記念写真を写した。インドネシアから来日し難関の看護師国家試験に合格した〇さんにも一緒に入ってもらった。
二次会ではマイクを握りしめて何曲も歌っている自分がいた。いつの間にか駅近くのホテルに泊まっていた。朝風呂に入り、朝食をゆっくり食べ東京に戻ったが。
越後湯沢は雪景色で、トンネルを抜けると快晴だった。
富士山がくっきりとそびえていた。

2011年12月17日土曜日

男の手料理

30年来の友人の〇中さんの家に招待された。〇中さんは目下単身赴任。まめな方で自炊をしているという。〇中さんの同僚のKさんが加わっての男3人の夕食会なので、鍋料理と飲み物があればよい。飲み物はビール、日本酒、ワイン(赤、白、ロゼ)。焼酎がないのはさびしいが、あれば飲みすぎるのでこれも良し。
煮え立った昆布でだしを取った湯の中に、エノキ、シイタケ、しゃぶしゃぶ用豚肉、白菜、あとは思い出せない(これだけだったかな?)を投げ込む。やわらかくなったらポン酢につけていただく。よく話すこと、よく食べること。冷蔵庫からはどれだけでも豚肉が出てきた。飲み物はすぐにセルフサービスとなり、体が温まってきた。
〇中さんとは同じ年なので、将来の生活のことなど、Kさんはお若い?のでKさんの生活ぶりのことなど話題はどの方向にも膨らんだ・・・
ふと目覚めると(そのままうつらうつらしていたようだ)、〇中さんが布団敷いたから休んでくださいね。とご自分のベッドを用意し、〇中さんはこたつの横に布団を敷いていた。明日は「ある土」なので、お礼を申し上げ三田線、山手線、西武新宿線を経由いて帰った。終電の一つ前の急行に間に合った。家に着いて、無事着いたことをメールした。「安心しました」と返信があった。
「鍋囲み心熱くし語る哉」

2011年12月16日金曜日

ICU忘年会

12月15日ICU忘年会が病院近くの「水炊きの店」であった。手術室では麻酔科など3つの科の総力を挙げた大きな戦いが進行中であり、その他4件の手術も行われていたので参加できないだろうな・・・と諦めていた。総力戦に光が射してきたので(「坂の上の雲」に例えるのであれば203高地を占領した)、ICUの3人のメンバーと遅れて店に行った。

 店の奥では空席も目立つ中ものの盛り上がったいつもの忘年会が展開されていた。普段ICUのナースと話す機会も少ないので、何人かとは自己紹介をしながら話した。幸い、ブログアップを承知して数名がカメラに収まった。良い人たちだと思った。
 一本締めの後、病院に戻った。総力戦は旅順占領にこぎつけ(これも「坂の上の雲」に例え、目的を達成し安定した状況下にあることを比喩した)、患者さんを無事にICUへと移動することができた。感心したのは、ICUメンバー全員がICUに帰り、これから一晩続くであろう激戦に備えてくれたことだった。
 ホッとしたとこでU先生が某雑誌の編集会議から帰還し、反省会を「さ〇き」でしましょう!とのご提案があった。今日の手術室リーダーのS先生と自分が提案に乗り「さ〇き」に行った。反省会は直ぐに済んだが、飲み会は続いた。終電の時間は過ぎ、S先生は病院に泊まり、自分はタクシーで帰宅した。

2011年12月14日水曜日

ゆっくり風邪を吹き飛ばす

土日に風邪を引いたようで、朝に飲む風邪薬で午前中が今一つはっきりしない。今夜はお誘いを受けたが決心して早めに家に帰り、鍋料理(コンビニの鍋に具を追加)とシリコンスチーマー料理、その他で暖まった。後はゆっくり風呂に入り、早めに休もう。
そう言えば、今日の朝ごはんも気合が入った。空き腹に風邪薬を飲む訳にはいかない。写真は朝ごはん。
長男からタクアンが多いと高血圧になると温かい忠告があった。

2011年12月11日日曜日

ももちゃん神戸から帰る

ももちゃん一家が神戸に行った。うちに届いた果物と、神戸であ〇ちゃんが買ったチーズケーキの交換と、ももちゃんのお顔を見に恵比寿に行った。一家が帰ってくる前に車のバッテリーがあがってJAFを呼んだ。バッテリーが大分弱くなっているようだ。





ももちゃんは、ちゃんとジージがわかっており、目をまぶしそうに細めてニヒルなお顔をして笑った。翌日チーズケーキをレンジで温めチーズを溶かして(柔らかくして)食べたが、今までで一番美味しいチーズケーキだった。

外装工事

山〇さんの「協〇」にお願いして、熊本の家は外装の改修に入っている。傷んだサイディングボードや木を取り替えや、壁や屋根の高圧洗浄や塗装と続いているようだ。毎日、ご近所さんに挨拶と進行状況の報告を兼ねた立て看板を立ててくれている。
山〇さんは工事の進行状況をメールで知らせてくれるので、安心している。







築30年近くでこれまでに1,2回外装工事や瓦の点検をお願いしたが、これほど念を入れてやってくれたとこはなかった。年末年始に熊本に帰るのが楽しみだ。