2011年7月31日日曜日

都立家政の阿波踊りと折鶴ラン東北編(佐野・小金井30㎞)

7月30日思いがけず帰宅が早くなった。遠くで(いや近くで)鉦や太鼓のにぎやかな音が聞こえた。
都立家政商店街の夏祭りは阿波踊りとのこと、明日はほかの商店街の踊り連も駆けつけ大賑わいになるという。今日はその前夜祭?とでも言おうか、都立家政商店街の踊り連が商店街の中心で(自宅から50m)でパフォーマンスを披露してくれた。
明日は「東日本大震災チャリティーラン&ウオーク」に挑戦している、Oさんと走ることになった。夜のうちに足利駅に向かおうと準備していたらOさんから電話、明日の9時に佐野駅前で待ち合わせることになった。

7月31日4時50分起床、5時34分の電車で山手線・東北新幹線・両毛線を乗り継ぎ栃木県の佐野駅に向かった。乗り継ぎが良すぎて9時待ち合わせの時間前に到着したので、しばらく佐野駅周辺の散歩を楽しんだ。写真は佐野駅前のサルスベリ。


9時谷治さん乗用車にて駅へ。既に走る始めているOさんを追いかけた。今日の出発地点から5Km地点で追いつき小金井駅に向い走り始めた。写真はOさんと合流。




そして脚比べ。
以下はOさんのHPから借用。 http://www.hi-net.zaq.ne.jp/genkidesu/higashinihondaishinsai.html




本日のゴール小金井駅にて。



[④ 7月31日(日) 佐野市~東北線小金井駅 35km 曇り
昨夜の雷雨は通り過ぎ、雨はなく雲の多い朝を迎えました。7時50分に電話が鳴りました。
熊本むさしクラブのTさんが今日は一緒に走ってくださいます。「もう佐野の駅に着いたよ」
さすが、早起きの先輩ランナー。「もう少し待ってくださぁい!」
そういえば、早朝?3時54分に震度4の地震がありました。携帯の緊急地震速報で目が覚めました。みなさん大丈夫でしたでしょうか。睡眠不足になりながらも、ランナーは前へ進みます。
8時35分に走り始め、9時15分から先輩ランナーと合流。ひたすら田んぼに囲まれた道を小山へ向かいます。予定距離は、Yさんの話では38km?「でも、今日は二人だからつらさも半分!」とはいきません。それでも、二人で走ると、会話は少ないものの、互いに励まし合って休憩も少なめ。水分補給だけですぐに走り出します。
やっと4号線に入った小山が28km地点。後7km。がんばれ!国道の道標に励まされながら、ようやく小金井駅着。伴走のYさん、一緒に走ってくださったTさん、ありがとうございました。
さあ、Mさんの待つ、那須へ直行!温泉につかり、バーベキューのごちそう!ご家族みなさんで迎えていただき、感謝感激!ワイズライフ満喫の一日でした。今夜は、オートキャンプ場、トレーラーハウスでお休みなさい。]

Tさんと合流!よろしくお願いします!せんぱぁい!
写真が入ります
ウルトラマラソンランナーにペース配分を教わって…。

ようやく国道4号線に入りました。あと7km!もうひとがんばり!
小金井駅着!昨日との合計73kmでした。お疲れ様!

那須のご用邸?Mさん家のお庭です!ひろーい!

ご家族みなさんとバーベキューをいただいて、かんぱぁい!

写真は露天風呂とご家族の皆さんと。

Oさんの自宅は神戸市。昨年はワイズメンズクラブの西日本区大会開催地広島へ、またワイズメンズクラブ国際大会開催地横浜に向け土日を利用して走っておられる。横浜では、せっかくなら日本橋まで走りたいとのことで、距離を延ばされた。自分は川崎駅〜品川駅、品川駅〜日本橋の2日間お付き合いさせてもらった。今回は大震災の後相馬にボランティアで訪れ、「東日本大震災チャリティーラン&ウオーク」を決意されたという。全国のワイズの仲間たちが応援している。自分は走ることができるので一緒に30km走った。それにしてもOさんは強い!25km位までは一緒にはしれたが殘り5kmはついていくのがやっとだった。
 Yさんは明日から仕事?で台湾へ、Mさんは3日間車で伴走して下さる。熱い心に頭が下がる。

2011年7月28日木曜日

話し合い兼飲み会

 手術部で日々のリーダーやICUのリーダーを務めるメンバーと食事会を兼ねた話し合いをした。一人が都合で参加できなかったが、率直な話し合いができてよかった。自分とは20年弱若い医師たちで、丁度自分が前任地に赴任した年頃だ。彼らは皆真面目で勉強熱心、周りにも良く気遣っている。彼らにアドバイスできることは、「将来は自分たちで切り開かねばならないが、先輩たちの生き方などが参考になる。これからの数年間が大切であるということ。自分たちの可能性をもっとポジティブに考えること。大きな組織の中で働いているので、他科医師や他職種のメンバーとの協調性が大切であること。きつい時こそ皆と共に頑張り抜くムードを作れること。」

 この年代は、どのような方向に進もうかを悩む頃だ。もっと多くの時間をとって話してあげられたらと思う。

 食事会会場は、病院から歩いて10分ほどの2階建てのお店。隠れ家のような2階に上がると座敷があり、まるで熊本の店で飲んでいるような雰囲気だった。特筆すべきは終了時にも自分は元気で眠っていなかったこと。病院に戻ってメールをチェックしてから終電前の電車で帰ったが、家についたときは午前様だった。

 新潟土産(ほとんど即席ラーメン)と湿布薬を持って帰ったので、家人のご機嫌はまあまあだった。しばらく家人と孫の話をしてから夢の世界に突入した。明日は、もっと年配のメンバーと話しをしよう!U教授のことか???

 その前の日は外来グループの歓送迎会が天王洲のレストラン&バーであった。さすが東京、今まで行ったこともないような洒落た店だった。ベルギービールのお店のようで、最初はビールを飲んでいたが、最後は芋の水割りになっていた。
 考えてみたら、二日続きの午前様だった。もっと体を労わらなくてはと思ったが、もう一度行ってみたい。

日本ペインクリニック学会

 日本ペインクリニック学会が7月21日~23日に愛媛県松山市で開催された。20日の夜の羽田発の飛行機で松山空港に向った。台風6号が丁度東海地方の太平洋沖をゆっくり通過中だったので、強風のために滑走路使用制限され離陸が遅れたが無事に出発することができた。


羽田空港で夕食は食べたが、ホテルにチェックインの後、U先生と繁華街にお出かけ、韓国料理屋で焼肉と鍋を食し、締めは何故か一風堂(博多)のラーメンとなった。

U先生の健啖ぶりにはいつも敬服している。U先生は私の飲みっぷりに呆れておられることだろう・・・

 21日はリフレッシャ―コースを受講した。講師の先生方の工夫を凝らした綺麗なパワーポイントや「ここまで調べたの」と感心する内容は、早朝松山市内観光ジョギング約10㎞の疲れを吹き飛ばしてくれた。評議会で、同僚のO先生が2014年度の学会会長に選出されたことを知った。再び夕食をU先生たちと取りながら学会の夢を膨らませた。再び締めは一風堂に行っていた。

 翌22日、朝は標高132mの勝山山頂にある松山城に走った。途中、俳句の町らしく、俳句の投函ポストがあり、夏の季語「夏木立ち」が紹介してあった。そこで、

「夏木立ち坂の上には松山城」

ホテルに帰り、「夜がへビーな食事であれば、朝食は軽めに」の原則通り、ジュースと野菜サラダを食した。2日連続で熊本の同級生O津先生とジョギング途中で偶然に合った。彼もジョギングしており、写真を撮ってもらった。

 2日目は精力的に講演を聴講しポスター発表や機械展示などを見て回った。中でも「緊急シンポジウム『被災地からの報告』では、岩手・宮城・福島県の医療機関の先生方が、写真や動画も交えて、被害の状況や診療の再開や診療支援に関することを発表してくださった。ご苦労を察し胸が熱くなった。

 懇親会では、線維筋痛症に詳しい戸○先生とお話し(自分が担当していた患者さんを紹介した)先生の著書「線維筋痛症がわかる本」を紹介していただいた。早速購入!T医大茨城医療センターの下○先生ともゆっくり話ができた。11月日本臨床麻酔学会が開催される沖縄県の笹○先生に「11月はよろしく!」と言ったが、さて自分は何を期待したのだろう?

 二次会はT医大麻酔科OBの先生方と大いに語り合い、三次会では松山のクラブで英気を取り戻した。しかし、さずがにラーメンは食べなかった。

3日目は、午前中「坂の上の雲ミュージアム」で、時間をかけて「坂の上の雲」の年代と秋山兄弟、正岡子規の人物を勉強した。丁度特別講演「『仰臥漫録』より-子規麻痺剤を服す」(松山市立子規記念博物館館長竹田美喜先生)があったので、正岡子規像が鮮明になってきたように感じた。


昼食は学会のランチョンセミナーを利用し、子規記念博物館に向かった。館内案内イヤフォンガイドを借りてゆっくりと見て回った。自分が俳句を少々かじっているので、全てが興味深く思えた。



 
そして道後温泉本館で温泉を楽しみ、道後温泉カラクリ時計の時報を見た。ゆっくり会場に戻ると、後輩たちが「松山城にいきましょう!」誘ってくれた。もう2回も走っていっているので丁重に断り、リムジンバスで松山空港に向かった。

 松山市!日本ペインクリニック学会会長、長○先生の温厚さと同じ、温かみを感じる街。学会も充実し、食べ物の美味しく、観光名所もインパクトに溢れる。家人に学会の坂の上の雲ミュージアムの話しをしたら、「私も行きたかったのに・・・」とうらやましがられた。

 来年の学会は松江市で開催される。「ラフカディオ・カーン」の小泉八雲記念館や玉造温泉もある。来年は連れていこうと思った。

2011年7月19日火曜日

桃ちゃん一家訪問す

 7月18日に桃ちゃん一家がうちに来た。ベビーカーに乗り、電車を乗り継いでの訪問、都立家政駅までお出迎えをした。会う機会が増えてきたからだろうか?顔を見せても泣かず、「いないいないバー」をすると笑った。今日は桃ちゃんのパパ・ママを自由にしてあげる日。パパ・ママを桃ちゃんから解放し、バーバと3時間預かることになった。
 桃ちゃんちと比べると、圧倒的に広い二階のリビング(家具がないから・・・)で思う存分走り回った。階段が好きなようで、這い上がりまた恐る恐る降りた。階段は一人では無理なので、上った後は一応段ボールで通行止めにした。
 一人遊びが上手になった。洗濯物入れの籠に、良く飽きないねーと思おう位、洗濯物挟を入れたり出したり。電話の留守電のスイッチを入れたり切ったりしていた。
 遊び疲れたころ、ウトウトしだした。お布団を敷いて寝かせた。小一時間寝ただろうか?目が覚めるとにこっと笑った。パパ・ママがいないのに泣かなかった。
 でも一緒にお風呂に入ったが、泣いてばかりだった。お湯が桃ちゃんにとっては少し熱かったのかな?パパに渡して体を拭いてもらった。後で会ったが、少しも嫌われんかった。孫は可愛いものだ。自由にさせると機嫌よく、コントロールをすると機嫌が悪くなる。自分と同じだと思った。

2011年7月18日月曜日

なでしこジャパンおめでとう!

2階にいる家人の歓声で目が覚めた。後半日本が宮間のゴールで追いついた。ここから二人で応援する。
圧倒的な体力差を、運動量とパスワークで補う。延長戦でリードされた時はもうだめかと思ったが、日本チームの落ち着きに何かが起きるような気持ちにさせられた。そして沢の同点ゴール。右足のアウトサイドに当てただけだが、後ろから急に走りこんできてのワンタッチだから、アメリカの選手たちにとっては、想定外のシュートだっただろう。
PK戦では、一度PK戦を戦っているアメリカの選手のキックの軌道は把握しているだろうから日本が有利かな?と思った。有利というより、日本の選手たちは落ち着いて楽しみながら最後までプレーしていた。

PK戦前の監督の笑顔がそれを作り出したのだろうか?

なでしこ優勝の写真はNHKテレビから。


優勝の余韻に十分浸った後、井の頭公園を目指して走った。中野区、杉並区、練馬区を通り、武蔵野市に至る。家政通り・新青梅街道・千川通り・吉祥寺通りを経て井の頭公園へ。昔、「俺たちの旅」で若者たちが歩き、ボートに乗っていたシーンを思い出した。井の頭池を一周して帰途へ。帰りは中杉通りを通って帰った。約23Kmの「旅」だった。
途中、アガパンサスやサルスベリの花に出会い、ずいぶん癒された。今から、長男一家がうちに来るという。急いで買い物に行き(自分が)、昼食の準備をした(家人が)。桃ちゃんは未だジージと呼んだことがないが、今日はどうかな??

2011年7月17日日曜日

合宿

 7月15日金曜午後から16日土曜の夕にかけて、大学のadvanced work shopが開催された。会場の東中野クロスウェーブに泊まり込みで、大学の問題点の抽出と自分たちの果たす役割、試験問題作成に関することなどを話し合い学びを深めた。懇親会では、初めてお話しする先生たちも多く、皆さんと知り合う良い機会となった。

 I先生と二次会??と称して近くの焼肉屋に移動し話していたら突然地震を感じた。かなり強かったが、震源地は栃木県で東京は震度4だったようだ。3次会はせずに大人しく宿舎に帰った。

 合宿終了後、新幹線で大阪に向かった。ワイズメンズクラブ西日本区の今期第一回役員会が土曜の午後から開催されていたが、本業優先なので遅れての参加になった。丁度ホテルに到着した時、懇親会が終わる直前だった。そのままフレンドシップアワー(二次会)に移動した。いつもは二次会で夢の世界に突入するのだが、飲み始めたのが遅かったので何と、三次会まで行ってしまった。ホテルに帰ったのが0時を過ぎていた。

 17日は5時過ぎには起床し、淀川べりを1時間30分ほど走った。6時前だったが多くの人たちが既に散歩やジョギングを楽しんでいた。
 河川敷に茂っていた樹木から蝉の声がにぎやかに聞こえた。
 自分は聖日早天礼拝を担当し、本来土曜にすべきであったCE特別委員会の報告をした。役員会や礼拝献金で集められた浄財がYMCA日本同盟に贈られた。YMCAは東日本大震災への支援活動を継続している。

昼過ぎに役員会が終了し、新大阪駅で家人と家人の妹と待ち合わせた。二人とも既に駅に来ていた。義妹とは久しぶりだったが元気そうで安心した。一緒に昼食を取った。さすがに姉妹だけあって良く似ていると思った。

帰りの新幹線から、富士山がきれいに見えた。
と、充実した金土日だったが、家に帰ってジョッギングパンツはホテルに忘れ(着払いで送ってもらうように頼んだ)バッグを家に上げる時に壁に色を付けてしまった。良いことも悪いこともあるものだ。

2011年7月10日日曜日

お墓参り

T医科大学麻酔科の創設者である、故三〇初代教授のお墓参りに、U先生、O先生の三人で行った。先生の墓所は長野県中野市のK山法〇寺にある。U先生とは東京駅長野新幹線プラットホームで待ち合わせ、長野駅到着後長野電鉄に乗り換えた。O先生は一足早く長野市に行き長野赤十字病院の見学などをされていたようで、長野電鉄の改札口で合流した。ここから30分ほどで信州中野駅に到着、帰りの特急の時間まで約1時間なので、お寺への往復はタクシーを利用した。

入口が分かりにくかったという法〇寺入口は改装され綺麗になっており、U先生は真っ直ぐに墓所に案内してくださった。水汲みをして色花を取り替え線香をお供え、麻酔科の今後の充実と発展をお願いした。炎天下で墓石は熱くなっていたが、水をかけると気持ちよさそうに見えた。
「炎天下熱き墓石に師の心」

当日は同門会(群有会)の日で、初めて出席するので、

「梅雨明けて群有会に仲間入り」

と、一句ひねってはみたが、果たして関東地方が梅雨明けかどうか心配した。その後、7月9日梅雨明けが宣言され、安堵。
夕より、同門会に初めて参加し、同門の先生方から温かい励ましのお言葉を頂戴した。

同時に、同門でS医科大学救急部教授に就任されたK先生のお祝いと、36年間にわたり教室秘書として御苦労されたM女史の退職お祝いの会もあった。
同門の先生方のご挨拶を拝聴しながら、帰属意識が深まっていくのを自覚した。

2011年7月5日火曜日

ひと段落

家人が本格的に上京してきた。食事のおかずが1、2品増え、果物が出てきた。しかし、今日の朝ご飯は自分が作った。通勤ランの時は6時半出発だが、家人の目覚ましは6時半にセットしてある。時差が1時間ある。自分もこの時差に悩んだ(日の出が早く、すぐに明るくなる)。しかし、2馬力で朝の準備が始まるので、時間に余裕が出てくるのがうれしい。
日曜日の夕方病院から家に歩いて帰ったが、途中のドラッグストアで柳屋のヘアクリームを発見し購入した。このヘアクリームは優れもの。髪に艶を与え、ほのかなやわらかい匂いがする。決して柳屋のポマードのそれではない。桃ちゃんも嫌がらない(好きだと思う)から、周囲を不快にしない。ヘアクリームをつけないと、髪がパサパサしてロマンスグレーとは縁遠くなりそう。近所の理髪店には置いておらず、わざわざ入手してくれそうもなかったので、探した。

2011年7月3日日曜日

熊本大学医学部サッカー部OBOG集まる!

 自分の歓迎会を東京と東京近辺で働いているサッカー部の後輩たちが企画してくれた。会場は新宿センタービルの53階。窓からスカイツリーや東京タワーが一望できる・・・が、高所恐怖症なので窓からは少し離れた席に着いた。
 参加者は自分を含めて10名。うち3名は2週間前の大学同窓会で会ったが、その時この企画が持ち上がった。速攻で仕切ってくれた飯〇君は流石に東京出身で良いとこを知っている。後輩の中で最年長の桃子嬢とは20数年ぶりに会ったが、すぐに判った。うちの病院のすぐ近くに職場があるという。中〇君と本〇君はそれそれの勤務先では責任者として活躍し、今が旬のように(これからもそうだが)講演にも引っ張りだこのようだ(と書いておこう)。S君は糖尿病の専門家だが、かなりリスクファクターを抱えているのではと心配した。渡〇君と渡□君は昇り竜の如き青年消化器外科医になっていた。2年前初期研修医として熊本の病院で指導した瀧〇嬢が本〇君のとこで研修している。ラグビー部のマネージャーだったが、今回特別参加。山□〇さんは熊本でドクターズでサッカーをした仲間で車での登場だった。学生時代の思い出、近況報告、3・11の時の苦労話など、話題は尽きなかった。お祝にK・SWISSのポロシャツまでいただいた。良い後輩を持てたことに感謝。
 流石に名幹事の飯〇君、同階のしゃれた店を二次会に確保してくれていた。全員移動し話が盛り上がった。ここで大切なのは10月の日韓ドクターサッカーのメンバーを確保すること。参加資格は35歳以上にはなっているが、若い先生もどうぞとのお誘いがあったので、動けそうな渡〇君と渡□君を一生懸命に誘っていた。うちの病院の外科のI先生が本〇君と一緒に働いたことがあり、学生時代サッカー部とのこと、さっそく電話をして誘った。東京からは4,5名は確保できそうだ。
 忘年会もしようと約束し分かれたが、心配ないようにタクシーで帰宅した。翌朝ちゃんと布団の上に寝ていた。朝ごはんを作り、布団干し、掃除、ブログアップに忙しい。