2013年3月29日金曜日

東京に戻って

東京に戻って若宮の引き継ぎを済ませた。近所の美味しい店や買い物に便利な店もお伝えした。

月曜日からは往復通勤ランを始めた。青梅街道沿いの桜は今週が見ごろ。
 
 
 
 
 
 
 
神田川沿いの桜もきれいだ。しかし朝方通勤時には空が曇っており青空に生える桜はとうとう写せなかった。
しかし桜だけではない、ニラバナも咲いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
名前のわからない花もあった。なんだろう?

27日朝、熊本から来てくれたT端先生に修了書と記念品、色紙が渡された。よく頑張ったね。

夜は初期研修医3名を連れて新大久保のタイ料理店に行った。辛くて不思議な味がする。デザートにバナナのフライがあった。T端先生を誘いたかったがあいにく最後の当直だった。

28日朝、朝のカンファレンス終了後T端先生を囲んで写真撮影をした。泣いてようだったが、すぐに笑顔になった。
夜ICUの焼肉会にT端先生を誘ったが、29日に引っ越しして熊本に戻るので余裕がなかったようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29日金曜日、疲れて診察中に眠くなったが陪席の看護師様が話題を盛り上げて話をしてくれた。ありがたい・・感謝。

夜、KOプラザホテルで新都心集中治療研究会に参加し、Y浜市大の森田先生の臨床統計のお話を勉強することができた。研究会後の情報交換会で、森田先生を囲んで。
 
 
 
 
 
 

今日走って帰れば5日連続の苦行に耐える! ヒルトンホテルのライトアップされた桜は怪しい色をしていた。

2013年3月24日日曜日

帰省その3

24日、ひなちゃん一家が熊本に車で帰った。見送りながら、義父母も少し寂しい気持ちで見送ったのかなと思った。






次男は鹿児島でいくつか立ち寄って新幹線で熊本に帰るという。一時間に一本しか来ないバスまで「二人で歩いた。

少しの時間だったが、父と子の会話ができた。

2013年3月23日土曜日

帰省その2

昨日の大掃除の疲れからか腰痛が少し強くなった。台所や玄関周りの片付けは手つかずで、次回回しになった。掃除をしながら「長男は大変だ。辞めたい・・・。」などと言っていたら、家人から「長男の嫁はもっと大変だ・・」と言っていた。そう言えばももちゃんは、長男の長男だ。写真は長男三代。



市街地を通っていると、昨夜一緒に食事をした平〇君と会った。彼はペルシャ猫を散歩させている不思議な人だ・・・。この猫は普段は室内で飼っているが耳が聞こえないので放しておくと危険なので朝晩繋いで散歩をさせているという。ペット好きのお手本のような人だ。

町の中心部にある焼きたてパンのある店に行き、朝食を済ませた。店には食事のできるスペースがあり、インスタントのお茶、紅茶やコーヒーは無料のセルフサービスだ。ここに種子島中央高校の生徒たちが主役になっているRobotics Notesのポスターがあった。






車で島の山の方に行った。港を見ると高速艇が出航していくところだった。
風呂掃除や洗濯を済ませ、レンタカーを返すので種子島石油の西之表SSで満タンにした。車が汚れたので、水洗いをしてもらった。無料サービスだったので感激した。港にあるレンタカー専用駐車場に車を駐車し、鍵と満タン証明書その他の書類を車の中に置いてドアを閉めたら(鍵をかけずに)返却になる。レンタカーの会社の人からは、島から車は出ませんから・・・と言われたが、大らかな島だ。
鹿児島へは高速艇で移動した。佐多岬や桜島を間近に通る。写真は本土最南端の佐多岬灯台。






鹿児島の桜は5分咲き。種子島は山桜は既に葉桜になっていたが、ソメイヨシノは少ないのか?桜は見かけなかった。
義父の一周忌に、東京から長男一家、熊本から次男と長女一家、大阪から義妹と姪っ子母子が到着した。義母、鹿児島の義妹一家と親戚二人を含めて賑やかになってきた。一周忌の法事はお墓参りから。ももちゃん一家と線香をあげた。


大阪から来た姪っ子の娘の杏梨ちゃんは9か月でつかまり立ちができる。未だお兄ちゃんたちと一緒には遊べない。ひなちゃんは、ももちゃんと別々のおもちゃで遊び始めた。写真はひなたと杏梨。





やはりおもちゃの取り合いが始まったが、ももちゃんが年長の貫録?をみせて完勝。ひなちゃんを泣かせてしまった。ジイジとしてはその方が良い。しかし直ぐに仲直りして二人ではしゃいでいた。これで一安心。

会食の前に仏壇にお参りし、義母から感謝の挨拶があった。この一年間の間に、追悼記念誌「ありがとう」が出版された。義母と家人が編集し、大阪の義妹が題字を書いてくれた。極貧の生活から県庁マンになり努力して実力をつけていった過程や家族への愛と感謝の文や手紙が載っていた。
会食の中締めで皆で記念写真を撮った。鹿児島の義妹の婿さんは仕事で遅くなり、写真には載っていない。
いよいよ明日は東京に戻り、荻窪での本格的な生活が始まる。


2013年3月22日金曜日

帰省

3月21日冷たい風が吹く中、古紙だしを済ませ羽田空港に向かった。種子島への乗り継ぎのためにJALを利用したが、JALスタッフの表情が生き生きしていたように感じた。対応も丁寧で気持ちが良かった。上空から見る富士山は雪が解け始めていた。




また上空から日本アルプスが見えた。







鹿児島から種子島行のJACも機材の到着遅れで15分遅れた。桜島上空では噴煙のため、桜島は4分の3だけ顔を見せていた。





種子島空港でレンタカーを借り、買い物後お墓参りをして叔父・叔母の家にあいさつに回った。写真は鹿児島種子島間を結ぶ飛行機






叔父の家に行くと、早番の仕事を終えた従弟がいた。叔父は出かけているらしい。叔父が育てている桃の木に綺麗な白い花が咲いていた。





自宅は誰も住んでいないので、荒れてくる。シロアリにやられた軒先はネットで覆われたままで修復が済んでいない。「種子島に別荘ですか良いですね!」とよく言われるが、帰ったら数時間は室内掃除に追われる。写真はネットで覆われた屋根。




やっと掃除を済ませ、母方の叔父と従弟を誘い夕食に行った。叔父からは祖父の時代の逸話など今まで知らなかったことを興味深く聞くことができた。





22日は、朝から墓掃除をして花を供えた。








家の納戸や倉庫に山積みされている不要物を市の処理施設に叔父たちと捨てに行った。軽トラックで駆けつけてくれた叔父と従弟の活躍で、軽トラックで不燃物をレンタカーで可燃物を2往復運んだ。総重量530㎏で引き取り処理料は2900円だった。
片づけ前の納戸は見せられないほど不要物、少なくとも15年間は入れっぱなし、が詰め込まれていたが、片付け後は2つの空ケースを含めてアルバムが4ケースあるのみ。
電気カーペット、テレビは電気屋さんか専門処理業者、段ボール箱・発泡スチロールは資源ごみとして別の処理場に運ぶように言われた。
 
 
 
家人は洗面台の下の物入れが随分すっきりしたと喜んでいた。
 
 
 
 
 
 
 
片付け中、小学校5年生の時に書いた習字が出てきた。なかなか上手な字だと思った。
夜は、従弟や友人と港近くの店で食事をしたが、どのようにして種子島を活性化させるかや馬毛島の活用などの話題で盛り上がった。送別会シーズンで店のスタッフはてんてこ舞いなので、写真を写すチャンスを失った。

2013年3月21日木曜日

引っ越し その3

3月17日~23日は夏休みをとった。引っ越しがひと段落した17日、そろそろ阿蘇スーパーカルデラ100㎞マラソンの申し込みをしようとHPを開いた。何と!「定員に達したので受け付けは締め切りました。」と書いてあった。この一年間、いたるところでスーパーカルデラの魅力と挑戦し続ける自分をアピールしていたので、腰から崩れ落ち涙にくれた。熊本城マラソンをきっかけに、熊本では大変なマラソンブームになっているようだ。RUNNETで検索すると柴又100㎞マラソンが阿蘇と同日に開催されることを知った。
18日は杉並区役所に転入届を提出し 、道路向かいの警察署で運転免許証の住所書き換えをした。午後からK中央病院に行ったが、休憩中に思い切って柴又100㎞ウルトラマラソンに申し込んだ。江戸川沿いに5㎞下り55㎞上って引き返す往復コースのようだが、高低差はほとんどなく制限時間が14時間なのは嬉しい。しかし6月1日は暑さとの戦いになるだろう。

約2年間住んだ家には愛着がある。19日にはダスキンさんにお願いし家の掃除をしてもらった。流石にプロで、お風呂や白壁に付いた黒いしみは綺麗になった。
 
 
 
 
 
 

入居した時の状態になったリビングは広い。ももちゃんはここで走り回っていた。
 
 
 
 
 

新居では結局最後に仕分けもせずにあるものを入れ込んで持ってきた段ボールの整理に時間がかかった。結局より小さな箱に入れてベッドの下に入れ込んだ。急に暖かくなったので20日冬のコートとダウンジャケットを荻窪駅にあるルミネのクリーニング屋さんに持ち込んだ。11月末まで預かってくれるシステムがあるので申し込んだ。その後、また冬に戻ったが(気温が下がった)古いコートとグランドコートがあるので何とか凌げるだろう。
地下にあるトランクルームを活用し、暫く使用しない布団や衣類を衣装ケースに入れて積み重ねた。4月には電気ストーブをしまって扇風機を出す予定。

2013年3月18日月曜日

引っ越し その2

土曜日は、ももちゃんがジイジのグレーの車に乗って荻窪の部屋を見たいと甘えるので、恵比寿に迎えに行って荻窪に連れて行った。

荻窪駅横のルミネの5階でラーメンを食べることになった。ももちゃんはパパのつけ麺とママの味噌ラーメンを食べて喜んでいた。
 
 
 
 
 
若宮の家に行くと、家人のお友達のY子さんが手伝いに来てくれていた。書斎以外は大分片付いた。通信教育を受けておられたM野大学の卒業式を前に熊本から丁度東京に出て来ておられたという。ありがたかった。引っ越し荷物は自分の車で運んだ。前に住んでおられた方が、家具や電化製品をたくさん残してくださったので、結局2日間で4往復で引っ越しは済んだが・・・。

夜は八代時代一緒に手術室で働いた看護師さん二人も合流して、近所の「卯の花」で会食した。当時麻酔科指導医試験の合格したお祝いに「祝 合格証」をもらったのだが、偶然にもそれが出てきたので皆に見せたら喜んでくれた。
 
 
 

他のお客さんの中に偶然八代出身の方が来ておられ、八代の話題で店の中が賑やかになった。記念写真だけは酔っぱらわないうちに写したので、まだしっかりしている。
 
 
 
 
 
日曜日は、朝から荷物運びと書斎の整理。断捨離を決意し取っておいた書類や本をかなり捨てたが、こんな時に限って必要になって慌てることがある。今日もY子さんが手伝ってくれた。良い人だ!!
1年11カ月前、鷺ノ宮駅で降りて新居に歩いて行った。長男がiPhonでこっちの方だよと道案内をしてくれた。どういう訳か電柱に宣伝が貼ってある「鳥の病院」の方向に進んでいた。
 
 
 
 
これはブログのネタになるなと思ってもうすぐ2年になるが、初めて電柱の宣伝と「鳥の病院」の入口を写真に撮った。これも引っ越しに因んだお話し。

2013年3月15日金曜日

引っ越しその1 


3月12日、下痢は止まったが、体の倦怠感は残っている。朝の食事は新潟カニ雑炊と紀州梅干しに松江のシジミ味噌汁にした。ここまで体を労わるとよいだろう。
3月14日、ホワイトデイ。2月14日にいただいた(おびただしい量の)チョコレートのお返しはきっちりとせねばならない。
この日は16,17日の引っ越しに先駆け、光回線の移転をした。今の借家では光回線を使って電話、インターネット、TVを利用している。おまけにセ〇ムも便乗しているので、先ずセ〇ムを外して次にNTTのお出ましと段取りをつけた。移転先には光回線用のルーターと火曜日にビ〇グカメラで買ったFAX兼用電話機を早朝持ち込み取り付けた。移転先の工事は室内に入らなくても可能ということで夕方にはすべてがOKとなるはず。
早めに帰宅して、夕食後家人と新居へ移動。電話機の説明書を読みながら、何とか電話・FAXが使えるようにした。新居は1Kでマンションの一階にある。ドコモの電波が弱く、光回線が入ったところで専用ルーターを取り付けてもらうことにしている。しかし工事は1か月以上先の話しという。それまでは、家にいるときは携帯(もうスマートフォンなのであるが・・・)は使えない。
今の借家の電話は使えなくなったが、3か月間は電話をすると新しい電話番号を知らせることができるようにした。この引越しを機会に、断捨離を決行することにした。しかし明日はICUの送別会なので、片づけは一時休憩となる。

2013年3月10日日曜日

次期会長・主査研修会

ワイズメンズクラブ国際協会の次期会長・主査研修会が新大阪駅近くのホテルで開催された。品川から乗った新幹線の中ではまだ体がだるく、きれいに見えた富士山が心を癒してくれた。
昼ごはんはホテル近くでうどんを食べた。幸い吐き気はなかった。

N瀬理事の急逝後の研修会であったが、参加者は悲しみを乗り越えN瀬理事の遺志を引き継ごうという気持ちにあふれていた。
一日目の自分の役割は開講の祈りと、キリスト教理解A(初心者向け)。開講の祈りには、「N瀬理事がこの研修会をきっと見守ってくださっているだろう」ことを入れた。
 



キリスト教理解講座は、自分の経験をもとに話したが、はほとんどの受講者にとって大学病院や緩和ケア病棟でのエピソード新鮮だからだろうか熱心に聴いてもらえた。何人かの方々から「とても分かりやすかった」「楽しく聞くことができた」とお褒めの言葉をいただいた。
 
 

写真は参加者の集合写真。

懇親会は、本日講師を務めてくださった方と同じテーブルになった。食事は少なめにいただき、お湯のお湯割り(お湯のこと)を飲んでいた。ビールは乾杯と継がれたときに口に含む程度にした。部屋には午後9時過ぎには帰りベッドに入った。写真は懇親会での区大会アピールの模様。自分にとってこれまでとは信じられないような懇親会の過ごし方に、「やればできるのに・・」と思った。
 
 
 

午前3時ごろには目覚めた。体のだるさは取れていない。6時ごろから淀川を目指して散歩をした。走る体力はなく、歩くのが精いっぱいだが3キロほど歩いたので良いことにした。
 
 
 
 
 
二日目は聖日早天礼拝の司会を務めた。説教をご奉仕くださった西村先生は前チャプレンで今でも説教や講義のお手伝いをお願いしている。「われらの国籍は天にあり」というタイトルでフィリピの信徒への手紙3章20-21節を引用されお話をされた。この中で、「いのち」の話しになった時おもしろい逸話を紹介された。作家のマーク・トエインが牧師に「自分が死んだら天国に行くのか、地獄に行くのか」と尋ねた時、牧師は「天国は良いところです。先ず気候が良い。地獄も良いところですよ。何といても仲間が沢山いる。」と答えたという話しは機知に富んでいると思った。残された時間が少ないと一日の重みが増す。これが老いの恵みなのでしょうと。紹介くださった、元上智大学学長ヘルマン・ホイベルス氏の「最上のわざ」という詩も心に残った。気持ちが少し豊かになった。
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。

午後からは九州部の次期役員が集まっての話し合いがあった。久々に九州人になった。