2011年11月30日水曜日

さ〇きで高校校歌を歌う

たーさん11月の最後の日、今日で麻酔科の研修を終える3名を誘いさ〇きで会食をすることにした。ひょんなことで、スタッフ3名が加わり7名の壮行会(明日からは別の診療科や保健所での研修)となった。会場のさ〇きは7名だと貸切となる。
麻酔や人生の話しで盛り上がった。秘蔵の久保田の万寿はいつの間にか消えてしまった。オールドパーも・・・。
しかしそんなことは良い。君たちの記憶にT医科大学麻酔科で懸命に研修をして、さ〇きで良く食べ良く飲み良くしゃべったことが残れば。
研修医の一人の上〇君は鹿児島県立鶴〇高等学校の27年後輩。一緒に高校校歌「はろばろと」を高らかに歌った。自分は1番の歌詞から始まったのに、途中3番の歌詞にワープしたようだった。今日の会で元気をもらった。ありがとう。

2011年11月29日火曜日

ハヤブサと紅葉

11月27日日曜日は熊本市立博物館に行って、小惑星探査機ハヤブサの展示会を見た。すごいものだと感心した。
隣にある細川刑部邸の紅葉がきれいで、京都の嵐山を思い出した。

家人と草葉町教会の礼拝に参加したが、飛行機の時間の関係で難波先生の説教は途中で退席した。
東京に戻り、散髪をして掃除、洗濯。病院に行って話し合い・・・今日は何マイル飛び回ったのだろう?
日本麻酔科学会の演題募集締め切りが近いが、後期研修医のO先生はデーターをまとめたのだろうか?と不安がよぎった。

2011年11月26日土曜日

ぎりぎりセーフ

25日は初期研修医の慰労会、2カ月ごとに麻酔科をローテートする研修医のストレスは大変なものだろう。ちょっとした機転やアイデアを褒めるとストレスが少しは和らぐようだ。当直や残り番あるので、全員は揃わない。飲み放題だったのでビール、芋焼酎のお湯割りはいつものとおりだった。ここでは写真をとる時間も惜しんで飲んでしゃべっていた。
26日、朝ごはんを作るがトーストを焦がしてしまった。ゆっくり朝風呂に入り洗濯をしていたら、家人から「もう羽田に出発しましたか?」のメールが入った。10時10分羽田発熊本行き・・計算では8時45分に家を出ると間に合うと思っていたが、速歩ができない!洗濯物は未だ洗濯機のなかだったが、意を決して家を出た。
鷺ノ宮から急行に乗り、高田馬場で山手線乗り換え、品川で羽田行きの快速に乗った。携帯で調べたら9時51分国内線駅着だった。出発時刻15分前に検問所を通り抜け57番ゲートに着いたときは搭乗も終わりかけだった。セーフ!

さて熊本の家は風呂の改装中、築27年なので壁もかなり傷んでいる。ここは娘婿のU太君が全面的に担当してくれるので心強い。
娘のとこに行き、ひなちゃんと1カ月振りにあった。この一月の間に、ハイハイ前進、お座りとつかまり立ちができるようになっていた。笑顔の可愛さにますます磨きがかかってきた。
熊〇地域医療センターまで娘に送ってもらい、友人二名のお見舞いをした。今度会うときも(は)元気でね。そして歩いてT高校同窓会(熊本一鶴会)会場のKKRホテルに向かった。
KKRホテルには世話人がすでに3名集合し準備をしていた。昨年11月会長に就任したものの、今年5月に東京に転勤したので、メールでのやり取り準備だった。おんぶにだっこなので、代わってもらおうとしたが、2年間は務めるようにとの世話人会の意向だった。自分にできることは人集めと、会の盛り上げ。挨拶は楽しく、参加の皆さんにビールをついで回った。集合写真もしっかり撮れたので、高校の同窓会本部へ報告しようと思う。
二次会はプラス1で歌う、3三次会は同級生のN君とショットバーへ。一人でなごみやでハーフサイズのラーメンを食べ帰館したが、午前様にはなっていなかったようだ。

2011年11月23日水曜日

自由が丘に行く

 昼過ぎまで朝ごはん(ブランチ)つくり、掃除洗濯と忙しかった。息子にメールしたら自由が丘に行くという。午後2時を過ぎていたが、車で自由が丘に向かった。行く途中、どこかで通った道だなと思っていたら・・・記憶が蘇った。5月に原宿・渋谷・目黒・駒沢公園・原宿・新宿・自宅を走った時の光景と同じ道を一部通っていたのだった。
 集合場所のスウィーツフォレスト近くの駐車場に車を停め、ももちゃんたちと会った。ももちゃんは寝袋みたいな暖かな袋に入ってベビーカーに乗っていた。自由が丘っぽい歩道を散歩して、線路の近くの喫茶店?に並んだ。この時はご機嫌だった。



レモンティーとケーキを注文したが息子はコーヒーだけだったので、ア〇ちゃんとケーキを半分こっこした。ももちゃんは持ち込みのリンゴジュースを一気飲みしていた。
 


駐車場までは手をつないで歩いた。

 車で暗くなった東京都心をドライブした。赤坂、三田(慶応の三田祭のようで学生さんが溢れていた)、白金台、日本橋、皇居一周、銀座を回り恵比寿へ。感想としては、東京はそんなに広くない。
 アトレの6階でイタリアンとなった。途中抱っこしたら寝起きだったので泣いていた。パスタを2種類、ピザを1種類にその他お野菜などを注文し、皆でシェアした。食べ始めたら笑顔が戻った。
 ももちゃんたちを家に送り届け、病院へ。気になる患者さんを診て、書類をいくつか書いて自宅に戻った。途中、息子からももちゃんの靴を車に忘れたとの連絡があった。「届けるのはいつでもいいよ」と言う。東京の観光案内の本は息子が持って行ったから返してもらわなきゃ。またももちゃんに会いに行こう!

燕三条での芋焼酎

21日はいろいろな出来事や書類作成、TBL(Team Based Leaning)の講習会などがあり、さ〇きで夕食を食べたのが23時を過ぎていた。
 22日は「いい夫婦の日」だが、家人は昨日から家の改装工事のために熊本に帰った。午前中の麻酔導入を手伝った後、新潟に向かった寒くなってきたのか、くも膜下出血の患者さんの手術が3週連続となった。帰りの新幹線の時間を変更してもらい、最後までついていた。三〇町病院野球部の飲み会があるという。急いで帰っても東京に着くには21時過ぎるので、遅れついで?で飲み会の仲間に入れてもらった。
 近くの雷〇の2階の広間で、M院長の隣に座った。M院長はトライアスロンに挑戦するスポーツマン。野球もされるという。年に3,4回試合をしたという、できたばかりの野球部だそうだ。飲み会は野球をしているとは思えない参加者の方が多く、賑わった。食事もなかなか充実しており、新宿なら会費は倍かな?と思った。飲み放題のコースで、ビールの後は当然のごとく芋のお湯割りになった。

 忘年会をどうやって盛り上げるか?の話題になったので、「忘年会盛り上げ隊」を急遽組織し、「せーのチャチャチャ素晴らしー!!」を伝授?した。
 メールをしていた石〇医局長からの電話で懸案事項は一日延ばしになったと知らされたが、23日野〇講師から朗報が届いた。よっし!「念ずれば花開く」の坂村真民の言葉を思い出した。

2011年11月20日日曜日

日本人の宗教観

役員会での聖日早天礼拝の奨励は会計の三〇さんが担当。ウィリアムMヴォーリズの生涯を振り返りながら、神によって示された人生の選択肢の意味について話してくださった。
ヴォーリズはコロラド大学で建築学を学びYMCA活動に入る。「海外伝道学生奉仕団」の世界大会でのテイラー女史の「中国における伝道と迫害」の講演に感銘をうけ、1905年滋賀県立商業高等学校の英語教師として赴任。8ヶ月後には高校YMCA設立し、1907年には八幡YMCAを創設した。日本人と結婚し1941年には日本に帰化「一柳米来留」と改名する。数々の建築物の設計やメンソレタムの販売近江兄弟社の設立など、で良く知られている。
三〇さんは、この奨励のために随分時間をかけて準備してくださったのに違いない。
 池上彰さんの書にある、「日本のように豊かな自然があり、湧水が流れ、緑が育ち、いろいろなところに生命が生まれてくるという土地では、水にも木にも石にも、いたるところに神様がいることになります。それは神道の八百万(やおろず)の神々になってくる。」「日本人は、日本人なりの宗教観、あるいは超自然的なものに対する畏(おそ)れのような宗教意識を、実はしっかりもっているのです。」を思い出した。仏教にせよ、キリスト教にせよ受け入れてきた日本の歴史がある。ただし為政者によって利用されたり弾圧されてきた歴史も一方では存在する。「日本人の多くは、一神教徒ではないし、ある宗教以外は認めないという排他的な思いを持ってはいない。しかし、広く神仏を信じる気持ちは強く持っているのです。」
 75%以上がクリスチャンではないワイズのメンバーが、朝早くからの礼拝に参加し、奨励を聴いてくださることは、実は不思議なことではないのかもしれない。

土曜日もすることが多い

ある土(勤務のある土曜日)は、国際標準規格の勉強会、教育用シュミレーターと新しい麻酔器の説明会など盛りだくさん。昨夜からの緊急手術は3科以上の協力で午前中のうちに無事病棟に帰ったようだ。
午後からは、指導担当学生さんとの会食。4名を担当しているのだが、1名は体調不良1名は急用ができたらしく、5年生2名との会食になった。場所は「さ〇き」近いし安い?し気取らない。午後1時から3時間の貸切で、良くしゃべり良く食べた(良く飲んだ)。この時写真を撮るのを忘れたので、21日手術室で記念写真を撮った。
おりしも首都圏は大雨だったが、タクシーで東京フォーラムへ向かい、E.Critical Care Forumに参加し、周術期の輸液や移植手術の管理などに関する勉強をした。富山の山〇教授と隣り合わせになったので、富山県の麻酔科事情についてお聞きした。休憩時間には九州・沖縄から参加の先生たちとお話し、旧交を温めることができた。
情報交換会への参加はやめて、20時15分には東京駅に向かった。東京駅から新幹線で新大阪へ向かう。20時30分発で23時5分には到着したが、約2時間半日記を書いたり本を読んだりメールをしたりそれなりに忙しかった。
ワイズの役員会がある新大阪駅近くのCホテルに23時30分に着いた。なんと仲間たちがホテル玄関でビール片手に待っていてくれた。とても温かい出迎えに涙が出そうになった。しかし、中瓶ビール一本だったので、物足りなかった・・・いや、健康に気遣ってくれてありがとう!!

2011年11月17日木曜日

誕生日その2とボジョーレヌーボー解禁日

11月17日は家人の誕生日であり、11月の第3木曜日なのでボジョーレヌーボー解禁日だった。夕からの医局会が早めに済んだので、やりかけの仕事をキリの良いところまで済ませてO急デパートに急いで歩いた。デパ地下にはボジョーレヌーボー売り場が準備されていた。しっかりした味とフルーティーな味のワインを試飲したが、焼酎と違い良く分からない。
チョッと値段の張るワインが美味しかったので1本購入した。
家人には、ケーキ売り場で4種類のショートケーキを購入。そのうちイチゴショートは自分用。いつもより。3時間も早く帰った。
家人は、ももちゃんのバーズデイカードや嫁のあ〇ちゃんからのネックレスと手作りケーキを見せてくれた。テーブルに置いて早速記念撮影となった。熊本の吉〇さんから届いた誕生祝のはがきも一緒に。家人は幸せをかみしめながら(のように見えた)餃子とカレーライスを頬張っていた。つまみになるようなオカズをデパ地下から買ってくるんだった・・・。幾つになったかは知らないが(ホントは知ってる)とにかくおめでとう!
医局の忘年会の時にする講演会の準備をしているが、スキャンからのパワーポイント挿入が上手くいかなかった。医局秘書のSさんの協力でできるようになった。ありがとう!

2011年11月13日日曜日

誕生日

59歳の誕生日を迎えた。ギプスや装具を外しても安静にする限りは足の痛みはない。この3週間で体重は確実に増えたが、体重計には乗らない。5年日記を読み返してみた。良く5年間日記を書き続けてきたと思う。朝からももちゃんから電話が来た。今日のお昼でお誕生会を計画してくれるようだ。
午前中は掃除と模様替え、熊本の自宅の改装で家人が帰る前に掃除をすることにしたが、良く溜めていたと感心するほど書類やチラシが出てきた。
恵比寿駅のアトレ6階に行くとももちゃんたちがいた。韓国料理にお店に入って昼食。小声でハッピバースデイを歌った。ももちゃんは眠いようで暫く愚図ったが、ご飯を食べてから元気が出てきた。
喫茶店に行くとこから、抱っこされても機嫌よく、お膝の上に乗って喜んでいた。

ケーキを食べたところで、プレゼントをもらった。ももちゃんのお絵かきで作ったバースデイカードとビール用のグラス・えびすビール・おつまみナッツのセットで、ももちゃんのママ(嫁)が準備してくれた。ありがとう!!


アトレの屋上には家庭菜園や芝生や木の回廊があり、ももちゃんのお気に入りの場所という。ここでは走り回るももちゃんを見ながら、日向ぼっこ。


シャボン玉飛ばしに挑戦したももちゃんだが、なかなか苦戦していた。
しかし!初めてももちゃんがシャボン玉を飛ばした一瞬の写真が撮れた。良くできたね、ももちゃん!

「秋空に 孫初めて飛ばす シャボン玉」



コスモスや紫のペチュニアが綺麗に咲いていた。季節外れのモンシロチョウや赤とんぼが飛んできたのには驚いた。




ももちゃん一家と別れ、新宿へ。ハルクで上下のトレーニングウェアー兼室内着を購入(アラカンなので上は赤色となった・・)、BIGカメラでオーブントースタとプリンターのインク、シリコンスチーマーを購入した。
ももちゃん一家のおかげでとても良い誕生日を過ごすことができた。ももちゃんとこにはクリスマスにサンタクロースジージがきっとプレゼントを運ぶことだろう。
ひなちゃん一家は今頃ロサンゼルスから成田に向かう飛行機の中だろう。泣いていないかな?元気にしていたのかな?
帰ってブログの続きを書こうとしたら、「たーちゃん」からコメントが届いていた。「たーちゃん」も病気を乗り越え職場復帰の目処がついたようだ。良かった!

2011年11月12日土曜日

ギプスから解放・・医局秘書さん歓迎会

 3週間にわたるギプス生活で、体が思うように動かせない苦痛を少しばかりではあるが理解できたように思う。しかし足の裏の痒みはいかんともしがたく、おとなしくするのでギプスを早くはずしてほしい・・・と思っていた矢先・・・。整形外科のY教授から、「足関節の固定用のサポート装具の良いのがあるので切り替えましょう。」との涙が出るほどうれしい提案があった。ギプスをしていると、歩き方はぎこちないのだが痛くはなかった。横断歩道でも飛び跳ねるように走る?までになっていたので、医局員からは「もうすっかり良さそうですね」と声をかけられていた。
 さて、装具に代わって、①足が軽くなった、②足の裏が掻ける、③湯船に足を浸けることができた、③靴下、靴が履けた、と良いことずくめと思いきや、歩くと足が(右外顆下の靭帯付着部周囲)痛いのでかばうように歩くようになった。不自然な歩き方のために、歩いていると右ふくらはぎが攣ってしまう。病院から西武新宿駅までのわずか500mの間で数回も立ち止まってストレッチをした。
今年いっぱいはジョッギングは中止し、痛まぬ歩き方を極める。来年1月1日をもって「走る人生の再出発日」とし俳号「粋駆」に相応しい生活を始める・・・などと決意新たにした。サッカーは4月ぐらいから解禁できるだろう。
「ギプスとれ足立冬の冷えを知る」
 11月から医局秘書として採用されたSさんの歓迎会が病院近くの店であった。手術室では巨大脳動脈瘤の緊急手術が夕方から入り(オールナイト)バタバタしており、時間が遅れたり参加できなくなったメンバーもいた。しかし、皆Sさんとの会話や食事、飲み物を楽しんだ。U先生は健診を受けたばかりで「トマトジュース」を飲んでいた。和食にトマトジュース??折角なら青汁が合うのにと思った。予約した人数より2名少なかったので、この分を皆で分けた。誰も手を付けなかった炊き込みご飯を自分はガツガツ食べていた。これも早く骨折を治すため。
「健診や前後三日は優等生」
当直と残り番の皆さんありがとうございました!!

2011年11月6日日曜日

恵比寿とガーデンプレイス

朝から雨が今にも降りそうだったがしばらくは持つだろうと、家人と恵比寿に行った。今日はアトレ6階でタイ料理の店に行き、ももちゃん一家とランチセットを頼んだ。ももちゃんは眠いようで、暫くママにしがみついてぐずっていた。ランチはかなりボリュームがあり、タイ料理らしく?食べて暫くすると辛さが口に広がった。
キャシヤ-にはタイ大洪水への支援募金の箱が置いてあった。募金をしたらお店の人が、スタッフにも家族を亡くした人がいるけど、笑顔で頑張って仕事をしているのです・・と話してくださった。


クリスマスの窓飾りや、来年切り替える5年日記帳を買い、ガーデンプレイスに行った。途中電車が通るとももちゃんは盛んに拍手をしていた。この頃にはご機嫌になっていた。
ウェスティンホテルロビーのクリスマスツリー前で記念撮影。2年前に息子たちが結婚したことを思い出した。
ガーデンプレイスのバカラシャンデリア前でも記念撮影。近くで韓国のスターグループのファンサービス握手会をしていたが、写真を撮ろうとしたら係りの人がダメだしをしたので、諦めた。来週あたりから寒くなるようだ。つい昨日までは夏日の沖縄にいたのに。

日本臨床麻酔学会

那覇空港に着くとスコールの直後のようで湿った暖かさを感じた。30年近く前に訪れたグアムを思い出した。熊本から一足先に来ている家人とホテル近くの沖縄料理の店に行った。一人800円プラスで歌や踊りのショ-が楽しめるという。ショウなしの一階はお客さんで賑やかだったが、案内された二階は閑散としていた。しかし、パフォーマンスは素晴らしく、自分は手まで骨折するのではないかと思うくらい手拍子や拍手を送った。気持ちは伝わるもの、ショ-の終了後記念写真を撮ってもらった。

学会一日目、登録後内〇先生が座長で、〇島先生や□田先生が発表するシンポジウムを拝聴した。〇島先生が明日からの仕事のため発表後沖縄から久留米に帰るという。良くまとまった発表で理解しやすかった。途中で自分が発表する「徹底討論」の会場に移動した。座長は大〇戸先生と□川先生で、お二人ともよく存じ上げ親しくさせていただいている。しかし、発表直前まではドキドキする。一旦話し始めるとうそのように緊張はとれてしまうのが不思議だ。数名の先生たちから質問を受け、討論終了後も質問を受けた。質問されるとそれだけ自分の話の内容が伝わった証しでもあり嬉しい。講座の後輩たちのポスター会場に行き、ポスターの出来栄えを見て回った。予演会の時よりも練っており出来栄えも良くなっていた。流石だなと思った。

夜の部は、郷土料理の「う〇りん」というお店にT医科大学と関連病院の皆が集まった。自分は家人も連れて行った。若い医局員たちとも若い?話題で話しているようなので一安心。泡盛も堪能させてもらった。N市民病院の冨〇先生ともお店であった。彼の上司の橋〇先生とは同級で親しくさせてもらっている。

学会二日目、9時から日本ペインクリニック学会の用語委員会がLホテルで開催された。朝食まで準備されての委員会で、いくつかの議案が検討された。萩〇委員長の準備された資料や丁寧な議事進行は素晴らしく、数名の先生方とも話す機会を得た。用語集の第4版や用語(解説)事典の準備など、忙しくなりそうだがやりがいを感じる。消化器外科におけるロボット支援手術の招待講演を拝聴したが、どこでも最初の手術は時間がかかるようだ。次世代のロボットは自動車教習所並みのインストラクター機能のある器械が登場するようなので期待したいと思う。しかしロボット支援手術をするには手術室がどこも手狭で苦労している。

ホテルに戻り、レンタカーを借りに〇リックスに行ったが、全車出払っているとのこと、もう一軒のJレンタカーに行った。半日レンタルで午後8時までなら何とか一台準備できるという。早速借りて、沖縄北部の美ら海水族館に向かった。右足がギプスに入っているので運転は家人にお願いした。那覇から約80㎞、約60㎞が高速道路で丁度沖縄島の背骨を走っている。時々雨が降ってきたが、1時間半で水族館に着いた。サメとマンタ(大きなエイ)が有名とか。
海邦博覧会の会場にできた?水族館でお客さんも多く、遠くに見える伊江島がきれいで種子島と馬毛島を思い出させた。帰りは2時間20分要した。特に高速道路を下りてからJレンタカーまでが渋滞でなかなか進まなかった。全て運転してくれた家人に感謝。

レンタカーを返却後、学会主催の懇親会に出席するために急いで会場に行った。懇親会会場では、T医大のメンバーやK大の先輩たちとも会えた。
須〇原会長はK大の先輩で、親しくお話しできた。実行責任者の垣〇先生には「これまでの中でも群を抜いて素晴らしい学会」と絶賛させていただいた。〇邦医大S病院の田〇先生は20年前から弟さんが自分と同じ名前なのが縁で親しくさせていただいている。学会でしか顔を合わせることはないが、お会いすると楽しい。中締めで帰るのがちょっと残念になるような素晴らしい懇親会だった。

学会三日目、朝から雨が降っていたので足先をビニール袋で包んだ。アーリーバードセミナーを受講し、「米国のacademic anesthesia departmentの現状と問題-日本は米国の失敗から学べるか?」を拝聴した。UCSFの橋〇先生の講演は衝撃的な内容だった。とは言え、20数年前からその兆候はあった。大学などの教育病院麻酔科で研修プログラムを選択するレジデントから臨床、教育、研究のどこに重きを置くかが研修プログラムの選択で決まるという。年々研究を選択する麻酔科医が減少し、自らの施設の科でオリジナルの研究者を育てることのできない麻酔科が増えているという。NIHのグラントを持った研究者を採用する(買う)ことで研究を継続することも多いという。リサーチマインドを持っていない臨床麻酔科医が増えて教育機関には残らず、開業にシフトしているという。T医大の社会人大学院制度などはその対策としては有効と思える。自分はリサーチマインドを持とうと教育機関に戻ってきたのだが。
後輩のポスター発表を見届けた。発表前は随分緊張していたが、堂々の発表だった。沖縄そばのサービスを受け空港に向かった。
空港では「ゴーヤ」を1本(300円也)買った。(東京のピーコックでは298円だった・・ショック!)

12月と2月の発表原稿・パワーポイント作成や学会発表を論文にまとめる仕事が待っている。ああ楽しい!?

2011年11月2日水曜日

口頭試問

U先生が沖縄に午前中から出発されたので、今週麻酔科に来ている5年生の学生たちの口頭試問を担当することになった。割り当てられた手術患者さんの周術期管理をプレゼンテーションできる・レポートにまとめてくる、全身麻酔に関しての質問事項や、全身麻酔導入・挿管に至る過程をシュミレーションしながら説明することができねばならない。
学生さんたちは緊張していた。今日が誕生日のR君のために皆で「Happy Birthaday」を歌ったところで少し緊張が取れてきた。数日前に4年生の講義で使ったパワーポイントをもとに復習した。そして一人ずつ隣の部屋に入れて、一対一での口頭試問となる。
やはり緊張しており、解きほぐすように質問(誘導尋問のように)していく。最終的には全員が納得できるように答えに導いていった。皆さんよく勉強していた。20数年前、K大学で試験問題作成を受け持ち、かなりエネルギーを使って作成した試験問題をM教授に提出した。M教授からは良くできている問題だと褒められた後、「ところで、君が学生ならどの程度できるのかね?」と質問された。口頭試問がこれからの実習や研修のモチベーションを上げることに一役買えば良いと思う。
終了後皆で記念写真撮影し、ブログにアップすることを許可してもらった。
骨折した右足はまだギプスのままだが、嫁のAちゃんが見立ててくれたレッグウォーマーをつけると寒くないし、目立たない。


今日の夕からは沖縄の人になる。