2011年10月30日日曜日

日曜日その2

今日は予定を、運転免許証更新、セーターの購入、散髪、ズボンのクリーニング出しとした。自分の運転免許証の有効期限は12月13日までで、都庁でも更新はできる。しかし、都庁では日曜日にはできないことや、病院から歩いての往復は今の状態ではきついので、思い切って東陽町の運転免許センターに行くことにした。東京都に3か所ある運転免許センターで建物内の撮影は禁止。優良ドライバーなので30分で講習は終了し、息子に一緒に昼食を食べようとメールした。写真は運転免許センターの正面入口。
恵比寿のアトレ6階で待ち合わせ、つばめグリルでハンバーグを食べる。ももちゃんは眠いようで途中までぐずっていた。
ももちゃん一家とガーデンプレイスの三越へ。ガーデンプレイスではクリスマスの飾りつけが始まっていた。息子夫婦にも見立てをお願いして自分のセーターを一着購入。付き合ってくれたももちゃんにはズボンをプレゼントした。


ももちゃんとはお手手をつないで歩いた。
途中元気になったももちゃんは、パパママが頑張るシャボン玉遊びは少しだけお付き合いし、ママのカードを持って走り回っていた。
恵比寿駅改札口でバイバイし、一人さみしく帰宅、途中で散髪屋さんの予約(40分後)をして、ブログを書いている。散髪中に今日これからすることを考えようと思うが、冷蔵庫にある卵3個を何とか料理せねばならない。
夕食には、ジャガイモを一個電子レンジでふかし、小さな四角に切った。フライパンにバターを2片溶かし薄く切った玉ねぎを色付くまで炒めた。ベーコン、ふかして切ったジャガイモ、刻んだ小ねぎを加え、塩コショウで味付けして卵を1個溶かして加えた。卵焼きの要領で刻んだ小ねぎと冷凍していた明太子をスライスして中に入れ、上からトマトソースを落とした。以上2品にコンビニ豚シャブ野菜サラダを加えた。骨折が治るように焼きうるめを添えた夕食が出来上がった。久々に料理をしたが腕は落ちてはいなかった。

2011年10月29日土曜日

第3回新都心麻酔懇話会

ある土の29日、第3回新都心麻酔懇話会が開催された。T医科大学麻酔科と関連病院の勉強会で、6題の研究発表があり厳正な審査結果K中央病院のYY先生が優秀賞に選ばれた。特別講演はK大学麻酔科のTY先生の「私の考える神経障害性痛治療」で動物実験から得られた様々な実験結果を提示しながら実際の臨床と結びつけながらの講演で興味深かった。写真はTY先生に感謝状。
懇親会ではYY先生の表彰や、関連病院の先生たちとの話など楽しい時間を過ごすことができた。席を移してTY先生を囲んでのお話をしたが、学会や病院診療の話など興味深い話題が尽きなかった。
明日は散髪に行くこと、来週は科研費の最終申請書の提出、沖縄での臨床麻酔学会などすることが多い。帰ったら洗濯物の取り込みとアイロンがけが待っている・・・
写真はTY先生を囲んで

科学研究費

文科省の科学研究費の学内締切が28日で、この3日ほどはたとえは悪いが「鼻血が出るほど、脳がパンパン腫れるほど」きつかった。しかし、やっと仕上がり(受かるかどうかは未だわからない)一息ついた。27日は久々に病院に泊まり、28日朝の外来を済ませてW病院に行ったので、連続36時間起きていた・・・これは東京に来て初めてだった。
こんな中、26日の学生講義(一番受けたのは、今年の100㎞のゴールシーンの写真とチェ・ジウと見つめ合う:遠近法に失敗した写真だったが)、一日半学外での仕事、18時過ぎからの会議、熊本からの大事なお客様との食事など、自分でも感心するぐらい良く動いた。
ギプスが緩くなったので(腫れが取れてきた)27日に巻きなおしていただいた。レントゲン写真を取り直してみるとはく離骨折の骨片が3,4個に分かれているのが分かった。やはり押さえると痛い。居直って、じっくり治す以外にないと思った。
11月2~5日の沖縄での学会にはギプスのままでの参加だが、2月の熊本城マラソン(フル)には走りたい。
写真は熊本からの大事なお客様。K看護部長さんと写す。

2011年10月26日水曜日

サン・アントニオの皆さんとの交流

サン・アントニオ市を中心とした広大なエリアの医師会組織、ベア郡医師会の一行8名が来日された。24日は東京に一泊して京都(2泊)を経由し姉妹医師会の熊本市医師会との交流で熊本市に行かれるという。
自分は熊本市医師会の国際交流員を18年間務め、7回サン・アントニオ市を訪問した。東京に一泊されるのであれば是非夕食をご一緒にと思い、通訳ボランティアでこの交流のために親身になって働いて下さるFHさんと数か月も前から連絡を取り合ってきた。FHさんのリクエストにかなうような古き良き時代のデパートレストランは探せなかったが、和食の炊き立てのご飯を出してくれる店をみつけたので、お連れした。

銀座のレストランなので夕食の一品一品の値段は高い。面白いことに、7,8品を1,2皿ずつ注文し皆でシェアーし合って食べた。飲み物はビールの人以外は、水道の水で良いという。ご飯とデザートは各自に回るようにした。日本が初めての人が4名おられたので、大変興味深そうに食事を楽しんで下さった。自分がほっとしたのは食事の間、お店に煙草を吸われるお客さんがいなかったこと。会計は割り勘でしたいとのことで、一人2800円位負担いただいた。自分がご接待しようと思っていたが、かえってご馳走になった。

このような食事の楽しみ方も面白い。数日前に来日されていたご夫妻を除き、皆さん眠そうだった。

病院に戻ったら、まだ手術が残っていた。ご苦労様。26日の学生講義の準備をしていたら午前1時半を過ぎていたのでタクシーで帰宅した。ギプスが外れるまでは仕方のない出費か。 

日曜日

23日の朝、むさしYMCAのバザーに行く家人の車で、ひなちゃんの家に連れて行ってもらった。いつの間にか、ひなちゃんはハイハイで前に進めるようになった。抱っこすると暫くは笑顔を見せて喜ぶが、次第にママの顔が見えるかどうかを気にするようになり見えなくなるとぐずり出す。ひなちゃんの成長を喜んで、熊本草葉町教会の聖日礼拝に向かった。
教会の礼拝で姉たちと会う。姉は日曜当番日以外はほとんど教会に来るので、教会で会うのがほとんど。今年も「じゃがいも・かぼちゃ」を買ってもらった。説教の箇所が「ヨハネ福音書一章」で、興味深い。最後まで聴きたかったが、途中で退席して病院に向かった。教会近くの白川公園では災害訓練をしていた。

入院中のMさんのお見舞いは熊本に帰る楽しみの一つ。2ヶ月間の写真を見ながら“(代わりに)体験してきたこと”を話すと、目を輝かしながら聴いて下さる。あっという間時間が過ぎ空港に向かう時間になった。昼食時間の前だったが、二人でバナナを頬張った。

自分には帰るふるさとがふたところもある。そして会うと楽しくなる人たちがいる。

2011年10月22日土曜日

家族会とKLCC勉強会

前任の熊本地域医療センター緩和ケア病棟家族会が開催されるので参加の為に、熊本に帰った。
羽田空港ではANAのスタッフがミニコンサートをしており、しばし和ましていただいた。
家族会では、人生の一番困難な時を過ごされた緩和ケア病棟、患者さんに寄り添われたご家族の皆様と思い出を語り明日からの元気をいただいた。
 11家族12名が参加された。うち6家族は自分が担当医だった。ボランティアの方も2名参加して下さった。「残された人生の時間がどんなに短くてもその人生には意味がある」「それでも人生に然り言う」という、「夜と霧」の作者ビクトール.E.フランクルの言葉を引用し挨拶をした。
ご家族の皆様の中には、思い出が尽きず語りながら涙される方もおられるが、語り終わると笑顔に戻る。なぜ?「一生懸命に尽くし寄り添ったから」と思う。最後まで看守られた達成感なのだろう。

途中退席し、KLCC(地雷廃絶と被害者支援の会・熊本」の勉強会に参加した。人吉市から来られた犬童さんのお話。大正12年生まれで軍属として中国で経験されたことを話されたが、その記憶の良さに感銘を受けた。犬童さんは一時チモール島に配属されたという。自分の父がチモール島で軍医として終戦を迎えた。ご存知かなと期待したが、ご存じなかった。でもまたお話を聞く機会を持てそうなので楽しみだ。

家人は明日の「むさしYMCA」のチャリティーバザーの値付けに行った。昨日は二男の誕生日で今日は結婚記念日(33年目?)だ。羽田・熊本間の飛行機では科研費申請の準備やサン・アントニオから来られるベア郡医師会一行への日本の医療制度に関するレクチャーの準備をした。忙しい毎日だ。
U先生からはもっと手術室で前面に出るようにとの許可(叱咤激励?)をいただいたが、喧嘩しない程度に存在感を出していこうと思う。これまで後輩の先生たちを立てていたが、この姿勢はできるだけ守るつもり。喧嘩?は何も良い結果をもたらさない。これは医師としての33 年経験から得た自分の結論。

2011年10月21日金曜日

松葉づえを置いて歓送迎会へ

19,20日と日本救急医学会が京王プラザホテルで開催されており、麻酔業務の合間を縫って学会に参加した。
20日はICUの麻酔科歓送迎会を病院近くのしゃぶしゃぶ店ですることになった。足が痛いので、近くの店を選んでくれたので嬉しかった(とは言え、病院の周りには数えきれないほどの店があるが)。
それにしても、皆さん良く食べること。今日のお肉はしっかり右腓骨に栄養をつけてくれるだろう。松葉づえをつくと足への負荷がかからないとは思うが、動きづらくかって右わきや右腕が痛い。
今日は病院に届いた北海道のジャガイモを職場の皆さんにおすそ分けをした。皆、自分の姿と足を見て、同情してくれる。このような優しい仲間と一緒に仕事をする自分は何と幸せなのだろう。足になってくれるともっと嬉しいのだが・・・
家人は3日連続で駅まで迎えに来てくれた。が、21日は熊本に帰る。ここからは自分はもっと逞しく強くならねばならない。

2011年10月17日月曜日

創立32周年第23回日韓YMCA医師蹴球親善交流

10月15日釜山で開催された。同日は早朝4時43分の始発で都立家政駅を出発、乗継も順調で5時50分には羽田空港についた。東京からの参加者7名が揃った。写真はT医大麻酔科の3人衆。

福岡国際空港で熊本からの13名と合流し結団式を行った。急遽発熱でチームの大黒柱の本〇先生がキャンセルとなり、13名の男性大人のうちプレーヤーとしてピッチに立てるのはギリギリ11名ではあったが、「親善だから・・・」と思っていた。写真は熊本からの二人と。
会場近くのレストランで韓国料理を昼食にいただいた。レストランが高台にあるので眺めがよく、3,4面あるサッカー場が見えた。一際鮮やかな緑のグランドは人工芝のようで、既に練習を始めているようだった。
会場に行き、朴名誉団長、張前団長、權団長らと再会を喜び合った。開会式での挨拶は、予め準備した韓国語の原稿を通訳のムンヒョに渡していたので上手くできた。人工芝はふわふわしてやや長く感じた。皆で記念写真んを撮り、キックオフ(前半30分-10分休憩-後半30分)が始まった。

開始5分右足が人工芝に引っ掛かり、足首を捻った。「プッチ」と音がした。激痛が走ったので靭帯が切れたのかなと思ったが、足首はどの方向にも動いた。開始5分なので試合続行、小走りではあるがピッチを上げると速く走れた。サイドキックではあるがシュートも右足でうった。前半終了後、張前団長から「良く走るね」と褒められた。しかし次第に痛みが増し、後半は痛々しくただピッチを走るだけのプレーに終始した。
後半何分だっただろうか?ゴール前の混戦から中〇先生が右足を振りぬきゴール!!俄然韓国チームは激しく攻めてきた。宮〇先生の好セーブの連発、熊本YMCAの徳〇さんの冷静沈着なボールさばきでゴールは死守した。


試合終了のホイッスル、優勝旗は1年振りに熊本(日本)に戻ることになった。写真は試合終了後の集合写真。

 土曜日の釜山は交通渋滞がひどく、宿泊ホテルには寄らず懇親会上に向かった。シャワーを浴びたが、右足の腫れはひどく内出血していた。
 權会長の交流の歴史を振り返りながら先輩方への敬意と感謝に満ちた
歓迎の挨拶には感激した。自分は、世代交代を意識しつつも、今後の交流の継続と発展を呼びかけた。団長を務めたのでテーブルには大邱市医師会長や両国の団長経験者が座り、思い出などの話しに花が咲いた。
韓国の民族楽器の演奏や、金管楽器の演奏などが交流会を飾った。




韓国のりをお土産に頂いたが、日本からはストール(東北大震災にあった子どもたちへのYMCA支援プログラムの基金にするために販売している)を贈った。その際、特訓した韓国語で説明したが70%は通じていたらしかった。ピッチでの悲劇とは打って変わった一面を披露した。
しかし朴東〇先生と一緒に踊った後から、歩き方におかしくなってきた。二次会はカラオケへ。平〇先生は英語で熱唱したが、もっと歌いたがっていたので、ここでは特にリクエストがない限りひとり一曲までと、羽交い絞めをしていた。
 16日は、早朝成田行き帰宅組の3名を送り出したのち、釜山観光「太宗台(テジョンデ)」に出発。木の葉のように揺れる観光船を体験した。トラムに乗って展望台や灯台での階段上り下りに精力的に動きまわった。
展望台では丁度チェ・ジウ(冬のソナタのヒロイン)の写真展をしていた。チェ・ジウと見つめ合う写真を撮ったつもりだったが、遠近法に失敗してまるで小さなたーさんと大きなチェ・ジウの見つめ合う写真になった。




昼食は太宗台近くのレストランで焼き肉食べ放題ビール飲み放題となったが、結構安く済んだ。街中の大型スーパーで買い物をした後、空港に向かった。空港までキム・ヒーハンさん一家とムンヒョが送ってくれた。彼らがいなかったらこのような密度の濃い交流や旅行はできない。
福岡国際空港で解団式をした。羽田からは乗り継ぎに急いで歩いたので、かなり辛く17日深夜帰宅となった。
17日月曜日右足首は腫れがますます強くなったので整形外科を受診、右腓骨剥離骨折の診断で右足はギプスに収容となった。1,2ヶ月は安静(走らない)が必要と思われる。松葉づえは4日間は使ったが、かえって動きづらいのでギプス足底にポッチをつけてもらって歩いている。

2011年10月10日月曜日

学会二日目

今日も早起きして幕張に行った。スピリチュアルケアのシンポジウムから始まり、柏木哲夫先生、柳田邦男先生の講演を拝聴した。
柏木先生の講演は「人として生きる」がテーマ、自己の存在の意味を考えながら、「死」を意識しながら生きるのが人という。「70歳代までは自分が死に近づいてきてており生きるも死ぬのも自分の選択とおもったが、82歳となり死が自分に近づいている」という哲学者堀秀彦の文を紹介しながら、死を意識した人の人生を語っていただいた。
柳田先生の講演は「悲しみ」は真(まこと)の人生のはじまりのテーマで、氏の生い立ち、兄・兄嫁とのかかわりを通して身内の中から経験してきた死や不条理な死を体験しながら、死を潤いのある2.5人称の視点で受け止めることの大切さを語ってくださった。
講演の後、今〇先生のポスターの前で石〇先生も加わって記念撮影。ホスターの発表者欄にはT医大の自分の名前が記載してあった。ありがとう。
学会終了後、東京駅のラーメンストリートで1軒制覇し、恵比寿へ向かった。

家人たちの今日のお買い物の荷物を持って、家族を自宅に連れて帰った。桃ちゃんはすっかり「じっじっ」と言えるようになった。ひなちゃんはジージの顔を見ると笑う。二人とも良い子だ。明日から毎朝走っての通勤が始まる。・・・と決意した。 

2011年10月9日日曜日

第35回日本死の臨床研究会年次大会

死の臨床というと「ギック!」とするが、人がその人らしく最期の時を迎えられるように支援する臨床学と言えばよいだろうか?
今日から2日間千葉の幕張メッセで開催される。3月に熊本で特別講演をお願いした高〇先生が実行委員長であることや、大学の麻酔科学講座に一人ぐらいはこの領域に興味を持つ人材がいないと申し訳ないと思い、内心ウキウキと参加した。
今朝は早起きして近所の妙正寺川沿いを4.5㎞走りシャワーを浴び、気合を入れて家を出た。
特別講演やシンポジウムなど興味深い内容が目白押し。会長講演は会長自身の自己紹介、何故緩和ケア医になったのかから始まった。3.11の時18時間新幹線にトンネル内で閉じ込められたことなど、自分の死を意識した体験など、興味深く拝聴した。
日野原重明先生は「90分間立ったままでの講演。原稿用紙を手に持っておられるがほとんど見ることなく、よどむことなくお話が進んだ。2020年までのスケジュールを入れておられるとか、講演終了後100 歳の誕生日(10月4日)を祝い、聴衆全員でハッピバースデイを歌うサプライズがあった。第一日めで参加者が2544名+αで、年々増えている。熊大からポスター発表の吉〇先生とも会え、ポスターをゆっくり見せてもらった。
小児緩和ケア・レスパイトケアのシンポジウムでは、在宅小児医療への取り組みも発表された。熊本の緒〇先生は小児の在宅人工呼吸の診療を長年続けている。熊本ではどうだったかな・・と結びつけながら聴いていた。
懇親会に暫く出席し数名の先生たちと話すことができた。写真は左から林会長、高宮実行委員長、小松会長を懇親会にて撮影。熊本からきている昔の同僚の今〇先生と薬剤師の〇谷先生と場所を変えてお話をした。皆さんは今日はホテル泊まり、自分は小雨の中、京葉線、大江戸線、西武新宿線と乗り継ぎ帰宅した。
途中、不要の受信メールを整理していたら間違って3つ残してすべて消えてしまった。送信記録は残っているが、送ってもらった桃ちゃんと、ひなちゃんの写真が消えたので暫く涙を流した。
気持ちを切り替え、明日も早起きして幕張に行く!

2011年10月8日土曜日

家族サービス

桃ちゃん一家、ひなちゃん母子、家人を連れて六本木ヒルズと「アカチャンホンポ」に行った。
7人を車に乗せ、いざ六本木ヒルズへ。六本木ヒルズは朝日放送の隣で朝日放送は子ども向けのイベントをしていた。




昼食をロブションに予約していたので、時間までウインドショッピングをした。
ロブションは2つ星レストラン。ランチは値段が手ごろ(ディナーに比べて)で子ども連れもOKとのこと。一応個室(ではなく外向きの5.6名座れるテーブル)を確保していた。出てくる料理のおいしいこと。

自分は他の注文と重ならないように気を付けた。前菜主菜の時はひなちゃんが、デザートの時は桃ちゃんが眠りに入ったので何とか無事に食事を楽しむことができた。とてもおいしいのだが、重く感じた(特にデザート)。
西五反田の「アカチャンホンポ」に行き、孫たちのお洋服その他のお買いものをした。とても広い売り場にはアカチャンとマタニティーの商品が豊富。自分はひなちゃんや桃ちゃんのお守りに徹した。
それにしても両母たちは気合も入り、力強く品定めをしていた。そしてジージの財布は軽くなった。
桃ちゃん一家を家に送って、自宅に戻った。風呂掃除とお買い物は自分がした。何と素晴らしい!!パパ+ジジを努めた。家族サービスはここまでで、明日から違う自分になる・・と思っている。

2011年10月7日金曜日

連休前

連休前で、緊急手術を含めて手術室は盛りだくさんだった。午前中は麻酔導入を手伝ったのちに麻酔相談外来へ。済んだらサンドウィッチとおにぎり(まるでカーボローディング)を頬張り、午後の麻酔についた。ICUも急患が入って大変だったのだが、N先生たちにお願いしたままだった。いつもすみません。残りが2例、今から緊急手術2例となったところで、後輩に託した。
19時過ぎに日韓YMCA」医師サッカー親善交流でのあいさつ文を韓国語に直してもらい発音練習をした。難しいが、何度も読み直してみよう。
20時15分自宅へ走る。涼しく絶好のコンディションだったが、今日は非常に疲れた。
21時10分家に帰ると娘の同級生Sさんが訪ねてきてくれていたので、記念写真を撮った。
びっくりしたのは、ひなちゃんがカメラ目線をしてくれたこと。
ジージのお願いを良く聞くいい子だ。

キリンチャレンジカップは日本がベトナムに1:0で勝ったが、とてもアジアのチャンピオンとはいえない試合内容だった。明日は家族サービスするが、その後は学会が続く。

ディズニーランドに行ったの?

10月5-6日一泊で浦安のディズニーランドとディズニーシーに、桃ちゃん一家・ひなちゃん親子そして家人が行った。5日は雨降りで寒い天気だったが、室内でのイベントやお買い物で一日が過ぎた模様。
写真はおそろいのディズニーランドホテルのパジャマで、ももとひな。


6日は絶好の秋晴れで乗り物にも乗ってはしゃいだ(大人が)そうだ。ひなはどっち向いてるの?
バーバが桃ちゃんとひなちゃんにドナルドダッグのソックスをプレゼントしたら、桃ちゃんは「ウワーッ、ウワーッ」と叫んで喜んだという。
自分は寒い5日の夜は「さつき」でブタシャブ鍋をつついて温まっていたが。

2011年10月4日火曜日

ひなちゃんが来た!

朝起きたらひなちゃんの声が聞こえた。昨晩の送別会・二次会を終え西武新宿線に乗ったのだが、目醒めたのが「下井草」(これは超ラッキーで2駅分の行き過ぎ)で新宿行きの各駅停車最終?に間に合った。娘とひなちゃんが眠る2階のリビングに上がった。ひなちゃんは寝ていて、両手でお布団を下げようとしていた。娘は薄目をして「おかえり」と言った。


そして今朝、満を持して二階に上がった。既にひなちゃんは目覚めていた。笑って声をかけると、満面の笑みを返してくれた。これから10日間家には4人が生活する。





夜は長男一家とひなちゃん母子と我々で恵比寿のピザの専門店で食事をした。ひなちゃんは食べている間寝ていた。桃ちゃんはお兄ちゃんらしくしようと努力し、これまでになく大人しく?していた。




この二人を見ると、キョウダイの存在は大切なのかなと思う。近くに年の違うお友達がいてもいいのかな。明日は家人は桃ちゃん一家・ひなちゃん親子とディズニーランドに一泊で遊びに行くという。久しぶりに独身の夜を迎えられるが・・・さびしくなると思う。

送別会

10月3日スウェーデンからの留学生マー〇ンが、2ヶ月間の滞在を終え明日帰国するので、病院近くの焼肉店で送別会があった。10月から茨城医療センターから帰任した濱〇先生や初期研修医も参加した。昼間の麻酔(2例とも術後ICU)や白熱したスタッフ会議でややばて気味ではあったが、ビールを前にして元気を取り戻した。
マー〇ンは血液(血小板)からミトコンドリア機能を測定する技術を持つ医学生で、自分も一回血液を提供した。日本語が堪能で、英語も母国語のように話す。論文の英語を見てもらい、make sense しない文を直してもらったりした。



U先生が講座を代表して、感謝状を贈呈した。室内は狭くて時間制限があったので、外に出て記念撮影をした。





二次会は近くの「さつき」、皆お腹一杯だったので無理をお願いしてつまみはフルーツアラカルトになった。芋のお湯割りもフルーツに合った。

スウェーデンの医学生はいろいろな国で研修できる環境にあるという。その基盤をなすのが、英語など数ヶ国語を自由に話す能力だ。マー〇ンは加えて日本語の読み書きにも挑戦している。今日の写真を送ることになったが、時には英語を直してくれんかな・・・と思った。

二次会を無事に終え、万歳三唱そして元気に西武新宿駅に向かったが・・・

2011年10月3日月曜日

帰省、霧島での九州部会

10月1日(土)病院勤務で昼過ぎに羽田空港へ。鹿児島経由(ANA)で種子島(JAS)に向かった。鹿児島・種子島間はプロペラ機で35名位乗れる。


種子島空港でレンタカーを借り、親戚に挨拶まわりをした。母方の叔父は「毎日、葬式に参列している・・」と苦笑い、島民の高齢化は激しい。父方の大伯父のところでは、T医科大昭和10年卒の大先輩である大伯父が、T医専の水泳部創設に奔走した話を娘さんから聞いた

その後従弟一家たちと民宿のレストラン(グアムのレストランのよう)で海鮮野菜の鉄板薬を堪能した。





翌日曜は朝から病院に入院している知り合いのお見舞いにいった。





また墓参りをして、これからの家族の健康をご先祖にもお願いした。






自宅の雑木林のバナナの木にバナナが立派に実っていた。そろそろ室内に入れ、黄色くなるのを待つ時期だ。功〇君にお願いして食べてもらおう。

午前9時35分の飛行機で鹿児島空港へ、霧島ホテルで開催された「ワイズメンズクラブ西日本区九州部部会」に参加した。中堀九州部部長の晴れ舞台、堂々の挨拶で霧島市環境協会副会長としての役目も十分に果たしたところは流石だった。
むさしクラブの大崎会長も堂々とバナーセレモニーに参列した。

霧島ホテルは龍馬とおりょうが新婚旅行で投宿した旅館とだそうで記念碑を見つけた。温泉はかなり広く、ネックレスを付けたまま入ったので、あわてて石鹸で洗った。

懇親会では熊本から参加のむさしクラブのメンバーと記念撮影した。午後7時過ぎにホテルを離れ空港へ、羽田から自宅に戻ったのが午後11時台だったので予定通りだった。

今回は、帰省・挨拶・お見舞い・部会出席と多くの目的を果たせたが、がっつい疲れた。家人は、あなたと一緒だと鍛えられると、喜んでいた??