2009年6月30日火曜日

今病棟で

もう死んだほうがいい・・と言ってた患者さんが、元気になられた。娘さんがお孫さんを連れてお見舞いに来られた。
病室にマットを敷き、お孫さんたちが病室でも遊べるようにされた。
「病室は 笑い溢れる 保育園」
元気になったMさんは、ボランティアの方に教えてもらいながら絵手紙に挑戦していた。
「生きていると楽しいことと出会えるんですね・・・」親子4代が集まった記念写真を見ながら、「母入院 存在感を 示しおり」と思った。

2009年6月28日日曜日

家族の絆

 緩和ケア病棟の家族会が開催された。一年半前から一年前までに緩和ケア病棟で亡くなられたご家族の方々と故人の思い出を語る。最初は涙を流すのだが次第に笑い顔に変わる。大切な時間を患者さんのために頑張った戦友?と表現するのは適当だろうか?頑張った達成感がご家族とスタッフ、ボランティアの皆さんに笑顔をもたらすのだろう。

家族の絆を思う一日だった。

2009年6月26日金曜日

生きていて良かった

 空梅雨と思うほど雨が降らない。梅雨晴れ間ではなく、晴れの合間の梅雨のようだ。K高周遊コースにはグラジオラスの花がきれいに咲いている。
水を張った田と苗代が田植えを待っていた。

昨日の緩和ケア外来で絶対生き延びたい・・という患者さんのご家族が来られた。考えられる治療法は全てし尽くしたがPD(Progressive Disease)で緩和ケア病棟を勧められているという。セカンドオピニオンを求めて来られたのだが、結論は既にもっと違う治療を受けたいということのようだった。K大学集学医療センターの話しをして、相談してみてはどうかとアドバイスをした。そして、どうしても難しかったらうちにいらっしゃいと話した。

なかなか黄疸が引かずに体力が次第に落ちてきた患者さんを受け持っている。もう駄目だと何度も思いながら闘病しておられる。生きているから、苦しいこともあるけれど、楽しいことや嬉しいことと会えるねと話した。お互いに事情は違うけれど、辛い時期を乗り越えてきた。奥さんと3人で話しながら3人とも泣いていた。ドアの外では受け持ちナースがそっと聞いてくれていた。


今週から来ている学生さん3名と走る約束をしていたので17時15分から走った。M救急救命士、H研修医とY先生が加わり7名の集団走になった。花岡山ー新町コースで約9km。
花岡山では、泰山木(花、葉、樹形などが大きくて立派なことから賞賛してこう名づけられた。また、花の形を大きな盃(さかずき)に 見立てて「大盃木」、それからしだいに「泰山木」になった。「大山木」とも書く。芳香あり)や槿の花がきれいに咲いていた。


実習中は大人しい学生さんたちの眼が生き生きしていた。勉強の時は辛そうだが。

2009年6月22日月曜日

父の日

 数日前からプレゼントは用意されていたようだ。娘が友達と阪神デパートに行ったという。先ずは夏用のジャケットを買い、店員さんにこれに合うポロシャツを見せてください・・と言ったとか。お友達は「奮発するねー・・!」と感心したそうだが・・・。
お金の出所は父親の財布なのに。
「父の日も 父のカードで プレゼント」娘作
 記念写真を撮ったが、手紙が添えてあった。「ありがとう 父譲りの愛嬌で 今の幸せつかんだよ」泣かせるではないか! 早速着て、病院に行きそのまま教会の礼拝に参加した。
その間、U太君のお母様作品のお花が届いた。玄関に飾ってもらった。感謝。
 家に帰り家人を連れて買い物にいった。その後、退院して植木町の自宅で過ごしておられる患者さんの家を訪ねた。
庭がきれいで、家で過ごしたいと熱望された気持ちが良く判った。帰ってから走ろうと思っていたのだが、一週間の疲れがどーんと出たのだろう。そのまま昼寝(夕寝)をしてしまった。
「世の中の 重荷おろして 昼寝かな」正岡子規作

決意2日以内にここ数回分の写真を掲載すること!

熊本麻酔フォーラムとU先生教授就任祝賀会

6月20日熊本麻酔フォーラムが熊本地域医療センター新館6階ホールで開催された。今回は周術期の抗凝固薬や抗血小板薬に関する勉強をさせてもらった。自治医科大学から講師としてこられた井〇先生は曽祖父が熊本出身とか・・熱心に講演下さった。また熊本麻酔専門医会役員会も開催されたが、5月からM先生に会長を引き継いでもらったので、気分的に大変楽だった。M先生は大変そうだったが・・・
 終了後、会場をホテル日航熊本に移して、同級生の牛〇先生の久留米大学医学部麻酔科主任教授就任祝賀会に参加した。牛〇先生は同期の代表として医育機関に残って活躍下さった。この数年は山鹿市立病院の麻酔科部長として年間600例の麻酔症例をこなしておられ、地方の医療の最前線で頑張っておられた。我々に勇気と希望を与えてくれた。これからの活躍を祈りたいと思う。写真は昭和53年卒の同級生と。
 祝賀会が終わって、井〇先生を誘ってM先生と麻酔フォーラム世話人のO先生と4人で二次会、三次会、四次会をした。
井〇先生はオジサンパワーに圧倒されたのではなかろうか??12時前には帰宅し、翌朝の7時過ぎまで爆睡した。
 

2009年6月20日土曜日

休みの次の日のツケ

 木曜が大阪日帰り出張で、金曜の外来は多かった。大学から応援に来てくれたI先生に外来診療を手伝ってもらえた。緩和ケア外来に通院されていた患者さんが腎後性腎不全を起こして緊急で膀胱ろうをつくり、大学病院でフォロー中の患者さんが全身倦怠感が強くなって緊急入院。麻酔科外来で治療中の帯状疱疹後痛の患者さんが痛みのコントロールが困難で明日から入院・・・バタバタとした。15時から透視下根ブロックを済ませ、16時からは熊本市消防局との話し合い、17時からは防毒マスクの説明会。
入院患者さんの御家族へ状況説明の後、17時半からは3週間頑張った救急救命学科の学生さん3人と挿管実習の救急救命さんを連れて白川縁~藤崎台野球場~熊本城二の丸公園~市民会館・辛島公園~病院コース7-8kmを走った。

19時30分から在宅Drネットの会に参加した。麻酔科当番の日なので20時入室の急性虫垂炎の手術の麻酔、21時過ぎからやっと入院患者さんを回診しカルテの記載と緩和ケア病棟週間記録を記載した。帰りは12時過ぎていた。
 帰って夕食。家人が待っていてくれた。感謝。風呂に入って寝たのが1時を過ぎていた。2時15分携帯が鳴った。緊急手術の申し込み。土曜日は熊本麻酔フォーラムとU先生の教授就任祝賀会がある。スーツに着替えて病院に向かった。ずべて済んだのが6時を過ぎ明るくなっていた。体力勝負とはこのこと。体力温存省エネで臨むか、出たとこ勝負日頃の体力強化節制??かは議論のあるところだろう。感心だったのは麻酔科の研修医蓮○先生が2つの緊急手術についてくれた事。と言うよりも呼ばれていった時には既に準備を済ませていた。こんなに意欲を見せられると疲れた体に気合が入る。すごいと思う。
 こんな日が何日も続くとカラカンまで持たないだろうが・・・
 

2009年6月19日金曜日

緩和医療学会教育セミナー顚末記

 空港8時発のANAなのに、いつの間にか頭の中には9時発がインプットされていた。6時前には起床K高周囲を走った。7時過ぎ朝風呂に入った。着替えていたら家人から搭乗券を忘れないようにといわれた。最近の搭乗券は携帯メールでくると言いながら、見せた。えーっ8時発とかいてあった。上着も着ずに飛び出した。車に乗ったのが7時35分だった。空港に電話した。8時15分発のJALと9時35分発のANAがある。8時15分に空港駐車場についた。9時35分発のANAしか選択の余地はなかった。幸いにも追加料金なしで新しい搭乗券に替えてもらえた。教育セミナーは10時から始まる。11時が受付締め切り時間とかいてあった。伊丹到着は10時40分会場の大阪国際会議場までに果たして20分で着くことができるのだろうか。

一時間 搭乗時間を 間違いぬ
乗り遅れ 日記を書いてた 待合室
締め切りに セーフを託す 偏西風

飛行機には予め前方通路側に座った。10時40分伊丹到着。8番ゲートからタクシー乗り場まで走った。多分キロ4分ペースの超特急だった。タクシーに乗り込み大阪国際会議場と告げ、はずんだ呼吸を落ち着けた。
残り15分、タクシードライバーは事情を察してくれたのだろう、だいぶ飛ばしたようだった。福島出口で11時、国際会議に11時3分、駆け上がって受付に着いたのが11時5分だった。受付係のお嬢さんが時計を見ながらすみませんと言った。そこを何とか、熊本からです。随分走ったのです。顔からは汗が噴き出していた。お嬢さんは受付印を押してくれた。彼女が女神に見えた。後セミナーは最前線に座り熱心に聴講した。走ってて良かった。写真は右側に押された受付印。セミナー終了後左側の修了印が押される。

何回目 走って解決 危機管理

帰りは余裕だった。

搭乗前 帰りは余裕で 蕎麦を食い
機窓より 夜空に映える 天の川

2009年6月17日水曜日

バテても走る

6月14日は熊本にしクラブの水〇会長ご夫妻から御呼ばれして食事会。立派なお刺身・鮨とともに、凄い鯛のアラ炊きもでた。もっとも天草では標準サイズとのことではあった。

8月16日合間をぬって、Y先生、M先生、前〇救急救命士、3名の実習学生さんと走った。このところ夜中の仕事も多くバテ気味であったが、学生さんの思い出を作るのも指導者の大役割・・なんて言っているが、本当は自分のストレス解消・・・

2009年6月13日土曜日

日本医療マネジメント学会

長崎市で開催された日本医療マネジメント学会に参加した。1日目は評議会、「診療報酬を医療の質に連動させる試み:米国P4P(pay-for-performance)の現状と問題点」と題した李啓充先生の講演(民間保険会社によってコントロールされる医療の危うさを警告)、シンポジウム「リスクマネージからクライシスマネージへの決断とその教育」(医療安全に焦点を当て、教育と現場での実践を紹介)を聴講した。最初は日帰りでの参加を・・と考えていたが、この二日間余り寝ていないので、宿泊することにした。長崎駅前のニュー長崎ホテルが取れたので、長崎駅前の長崎チャンポンや屋さんのハシゴをした。一軒目は何のパンフレットにも載っていないチャンポン屋さん。だれもお客さんはいなかったが、結構おいしかった。二軒目は観光客に有名なお店。先ずは皿うどんから食べた。おいしいのだが甘い。次に餃子、やっぱり甘い。最期にチャンポンに挑んだが、お腹一杯で2/3でギブアップ。やはり Hungry is the best sauce だ。21時にはぐっすり寝てしまったようだ。
 しかし悲しい習性で朝の3時には起きてしまった。このために重いPCを持ってきたんだった。早速“スペシャルオリンピックスフェア~有森裕子さんと共に~”第1回実行委員会の議事録を作成、西日本区大会のブログ作成に取り掛かった。6時過ぎから周辺の観光を運動を兼ねてでかけ、うっすら汗をかいて朝食、朝風呂ですっきりして軽く食事??
二日目プログラムに参加した。
宮崎理事長の基調講演の後、シンポジウム「医療コンコンフリクトマネジメントへの取組み」(医療メディエーターの教育、役割など、医療者と患者間のコミュニケーションの改善について)、教育講演「ERと地域医療体制」は福井大学の寺澤秀一先生の1時間全く飽きず5分に一回は爆笑のERからみた教育・地方医療の再生は心に残った。シンポジウム「チームで取り組む患者の在宅ケアと緩和ケア」では実際自分が取り組んでいることとオーバーラップするので、「質問もさせていただいた。最後にアナウンサーの草野仁さんの講演「いつもチャレンジ精神で」を拝聴した。
 帰りの汽車には最初から座れた。
鳥栖駅で かもめがつばめに 変わりけり
入院患者さんの急変があり、熊本駅から病院に向かった。

2009年6月11日木曜日

むさしクラブ会長引継ぎ例会

 今〇会長のこの一年、西日本区大会の準備、熊本にしクラブの設立など通常の一年間の会長の数倍の仕事を担った一年であったことを推察する。今日の例会までが、彼女に責任があるのだが、会長最終例会では例年パワーポイントで一年間の活動をを振り返える。メンバーに写真の提供を呼びかけられていたので、懐かしい場面がよみがえってきた。一年前の緊張した会長挨拶と比べ物にはならない堂々とした話し振り。いつも本業の旅行業の方でこっちがお世話になっている。写真は会長引き継ぎを終え満面の笑みの今〇会長右。
 今期は、4名がにしクラブに移籍し、今日で山〇さんが諸事情で退会された。山〇さんは復帰できそうになったら戻ってくると言われたので信じて待つことにしたい。5名の減でむさしクラブは23名になった。しかし今日ビジターで参加された方々の中には入会希望の方もおられたので次期の村〇会長の期には飛躍させたいと思う。
 私も家人にこの一年想像以上の苦労をかけた。花でお許しくださらないだろうから、いつかデパートに連れて行こう。

2009年6月7日日曜日

第12回西日本区大会

6月6(土)7(日)日にワイズメンズクラブ国際協会第12回西日本区大会が熊本で開催された。6日は阿蘇スーパーカルデラ開催日で重なったため今年は参加しなかった。
 さて、在熊9クラブはそれぞれの役割を分担した。我がむさしクラブは、メネットアワー(家人がメネット事業主任を1年間務めたので仕上げを飾る!)と聖日礼拝(説教をお願いした山下先生が熊本草葉町教会の牧師さんなので教会員の村〇さんが礼拝委員長、献金感謝を山〇さんにお願いした)を担当した。またむさしクラブの今〇会長は登録委員会委員長(旅行業をなさっているので引きうけていただいたのだが、この一年間を通して実行委員長の次に仕事量が多かったと拝察)、米〇直前会長がユニフォーム委員会委員長(様々な意見を何とかまとめた・・・皆さん思い入れが強いから・・)、米〇さんと若手のホープ岩〇さんが総合司会を、そして私が医務・新型インフルエンザ対策を担当した。
 5日(金)の前夜祭には、Oさんの前夜式から直行、既に食べ物はほとんど無かったが、全国から集まった仲間と旧交を温めた。
 6日会場入り口はスペシャルオリンピックス運動を全国に広げた中村さんが丸山ハイランドから持ち込んだ木々で作ったアーチとスペシャルオリンピックスのアスリートたちが来場者を迎えていた。
今期最期の西日本区役員会に参加した。クリスチャニティー特別委員会委員長は準役員の立場であるが、任期は決まっていない。暫くは毎年の役員の皆様とのお付き合いが続く。
 メネットアワーでは西日本のメネット活動を示す飾り付けがきれいに掲示されていた。1年間の活動が報告され、国内メネット事業の発達障がい者へのプログラムリーダー研修会の報告も行われた。無事に次期のMメネットの事業主任が引き継がれた。
家人もメンバーであるトーンチャイム秋桜倶楽部のみなさんが音楽をサービスしてくださった。トーンチャイムは一つの音しか出せないが、多くのトーンチャイムが加わって美しい音楽になる。今期のメネット活動がトーンチャイム演奏に例えられるのかもしれない。ご苦労様。
 EMC2000推進委員会の会合では、次期の目標が提示されたがかなり高い目標だった。熊本みなみのUさんと西中国部の高〇が副委員長になった下さったので、少し気が楽になった。がDブロック(西中国と九州部)の責任者はそのままだった。
 熊本高校オーケストラの演奏フィンランディアで開会式は始った。
総合司会は米〇、岩〇ワイズで、
むさしクラブのメンバー。クラブ会長バナーセレモニーでは今〇会長、兄弟クラブの京都みやびクラブの北〇会長が堂々の入場をされた。
 一日目は来賓挨拶、熊本ヤングクラブ国際協会加盟認証状伝達式、 ミュージカルYのパフォーマンス、各部長の事業報告など盛りだくさんの内容。中でもワイズの大先輩である岡〇さんが奈良傳賞を受賞された。これまでのご苦労に感謝。熊本にしクラブが、東京西、京都ウエスト、大阪西、神戸西との国内兄弟クラブ(DBC)締結式では、念願のペンタゴンが叶い感激した。 

懇親会は、熊本らしいおもてなしを・・と企画されていた。山鹿灯篭、ジェーンズクラブのメネット・コメットによるパフォーマンス、サンバおてもやんの全員踊りなどなど・・・ ここでは、参加下さったクリスチャニティー特別委員会委員が集まり顔合わせと記念撮影を行った。感謝。
二次会から、京都みやびクラブとの懇親会に参加し帰宅した。

 二日目は聖日礼拝から。礼拝はむさしクラブの担当。日本キリスト教団熊本草葉町教会の山下牧師の説教は「熊本バンド無くば」というタイトル。紹介された聖書の箇所は使徒言行録16章6~10節で、パウロが宣教に行き詰まり二回も計画を変更せざる得なかったことが記されている。しかし、マケドニア(ギリシャ)にパウロが渡ったことにより、キリスト教はヨーロッパに広がった。確実な対象理解の下、熊本バンドから始った日本のYMCA運動との対比は鮮やかであり、「熊本バンド無くば 京都に同志社無く、同志社無くば YMCA無く、YMCA無くば ワイズメンズクラブ無く、ワイズメンズクラブ無くば 自分も無し」の言葉が胸にしっかりと残こった。礼拝委員長の大役を果たしたMさん、献金感謝を担当されたYさんに感謝。
 家人が一年間務めたメネット事業主任も活動報告と表彰で大方が修了する。兄弟クラブの京都みやびクラブが最優秀メネット賞を受賞。良かった。またFF資金贈呈式では、むさしクラブの推進事業のたんぽぽハウス支援が、カンボジア地雷廃絶やタイ少数民族里親支援事業と共に選ばれ支援金が贈呈された。理事引継ぎ、役員引継ぎも無事行われ大会は終了した。準備していたAEDを使用することも無く、医務室の利用もなかった。参加してくださった皆さんはほとんどが満足して帰途につかれた。熊本城観光のエクスカーションに家人と参加した。本丸御殿での食事は、なかなか空きが無くできないのだが、特別に食べることができた。次次期メネット事業主任の坂〇さんと、不思議なきっかけから家人と出会うことができた。これも神様のお導きだろう。写真は坂本さんご夫妻と本丸御殿で昼食。
 西日本区大会の大成功には信じられないほどのエネルギーが費やされた。一生青年でありたい。

2009年6月4日木曜日

どうして走るのか?

1時間いや30分時間があったら走りたい・・・丁度今週から救急救命学科の学生が病院実習に来ている。ということは、誘いやすい。火曜日は時間が無かったので5kmと結構飛ばした。参加者は30例修了した栃〇救急救命士と学生さん3名。
そして今日、患者さんの夕食時間に合わせて60分弱、約7kmを清〇臨床工学技士と学生3名。折角だから女子アナコースにした。熊本朝日放送社屋の前で建物の中を皆で見ていたら、女子アナのような人の動きが見えたので納得して走って帰った。救急救命学科の学生さんには必ず大洋火災受難の碑に案内する。昭和48年の秋、丁度化学の実習中に発生した大惨事だ。

2009年6月3日水曜日

病床洗礼

緩和ケア病棟に入院されているOさんが6月3日病床洗礼を受けられた。ご家族や親しい友人が集まり、ベッドを家族控え室に移した。入院から1ヶ月半、週末の外泊を繰り返し、懸命に生きてこられた。時々病室で一緒にお祈りをしていたので、感慨深かった。数日前から病態が急変され、無事に洗礼式が行えるだろうかと心配していたが、神様が守ってくださった。

式が終わって皆さんと記念写真を撮った。Oさんからブログに載せてね・・と言われた。Oさんは、記憶にも記録にも残る患者さんになった。
 そして4日の昼Oさんが召天された。最期まで立派に生き抜かれた。人生の最も困難な時にともに歩む機会を与えられたことに感謝している。残されたご家族に癒しと平安が与えられますように。