2009年1月30日金曜日

熊本バンド133周年記念早天祈祷会

熊本バンド133周年記念早天祈祷会が花岡山山頂で開催された。この10年以上毎年参加している。一頃は病院から走って上り、終了後は走って帰った。凍てつくような寒い日もあったが、一回も雨で中止を経験していない。失敗もあった。焚き火の勢いが強く、一張羅のコートに無数の焦げ穴を作ったこと。さて昨夜からの雨も開始数時間前にぴたりとやんだ。そして今までで一番暖かい1月30日午前6時30分を迎えた。
 熊本草葉町教会の山下先生が実行委員長のご奉仕をされている。この会には全ての宗派のキリスト教会のかたが参加される。事務局、会場整備、駐車場整理は熊本YMCAのスタッフが全面協力してくれる。


 奨励は福田稠氏が担当された。福田氏は熊本いのちの電話の理事長としても奉仕されている。年間約3万人の自殺者がいる現状を紹介し、金融危機に発した世界的な政治、経済の混乱は、政治の力や経済の回復に伴いいずれは克服されるであろうが、心に根をもつ危機には精神的霊的な支えが必要であり、宗教の果たす役割は大きいことを話された。福田氏は中学生の時に芋粥に誘われてこの祈祷会に始めて参加されたそうだ。今日ボランティアの皆さんが豚汁を振舞ってくださる。今日はマイ箸とマイお椀を持参した。


祈祷会が終了する頃は大分明るくなってきた。早天祈祷会の時は雨は降らないというジンクスは生きていたその日の夕刊に早天祈祷会の模様が紹介されていた。写真を良く見たら、一番右下にしっかり写っていた。ロマンスグレーは目立ってしまう。





そして夕方クリニカルクラークシップの学生と7kmゆっくり走る。19時から会議が続き20時過ぎから明日の役員会の準備を始めた。

2009年1月28日水曜日

急患

 急患で入院だとか、手術だとかになると全ての予定が止まってしまう。先ほどまで緊急手術の麻酔、その後は昨日上腹部の激痛のために緊急入院して、今日腹腔神経叢ブロックをした患者さんの記録を書いていたらもう23時が過ぎてしまった。今日は麻酔科当番なので仕方ない。今夜は2つの会議を掛け持ちするはずだったが、何れにも急患があれば参加できませんと前もって連絡していた。
 帰る前に、外来を覗こう。よくあることだが、帰る途中で呼び出しを受けて引き返すことがある。そんな時は、疲れが倍になる。予告なしでやってくる仕事、保険や申請書などの書類書き。急患の麻酔中に二つ書き上げた。ああしんど・・・

2009年1月26日月曜日

酷寒の時代

 ホットライン(救急車からの直通電話)を持っていて、落ち着いて受けられるのは医療施設からの転院搬送患者さん。既に担当医が決まって病棟も受け入れ準備をしているので、外来と担当医にあと何分で救急車が到着すると連絡すればよい。
 逆に緊張するのは、重症であるが原因が未だわからない患者さん。搬入口で初期診察、トリアージ、検査指示、初期治療をしながら最も適切な医師、チームを急いで作る。
 この数日熊本も寒い。夕方冷え切った患者さんが救急車で搬入されてきた。都会からのUターンの方だった。保温に努めていると、体が温まるにつれ両下肢の痛みを強く訴え始めた。MSW(Medical Social Worker)にお願いし行政の係りの方と連絡を取り合い、何とか治療が受けられるようにしてもらおう。明日の状況を診て、次のことを考えねばならない。
 とても他人事とは思えないことが身近で次々と生じている。
 

2009年1月25日日曜日

熊本バンド記念礼拝

 今日は熊本バンド記念礼拝なので、京都から昨日来られたM大先輩を教会の礼拝にお誘いした。牧師のY先生とは京都YMCAの常議員として親交があったとか。M先輩は朝夕お経と唱えられる熱心な曹洞宗の仏教徒であるが、礼拝の1時間半熱心に説教に耳を傾けられ、讃美歌も歌われていた。ワイスメンズクラブの会で行われる礼拝にはいつも参加されるが教会の礼拝には初めての出席だそうだ。先輩は今から16年前日本区理事(その当時は東西に分割されていなかった)の大任を果たされ、名実共にワイズメンズクラブ活動の牽引者として活躍してこられた。M先輩の度量の大きさにはいつも敬服する。礼拝が終わりY先生と親しくお話しをされていた
今日の説教のタイトルは「冬に耕す」。旧約聖書と新約聖書のなかから
「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない」箴言20章4節
「今飢えている人々は、幸いである、あなた方は満たされる。
   今泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。」ルカ福音書6章21節
を示され、熊本バンドが花岡山で奉教趣意書に誓いをたてたのが1月30日の寒い冬であったこと。オバマ大統領の就任演説の最後のほうにある「米国が建国された年、厳寒の時期に、少数の愛国者の一団がいてつく川岸で・・・」が氷点下の就任式で話されたこと。現在の経済、社会情勢を酷寒の冬にたとえられながらも、希望がかなえられていくことを信じ努力しようと力強いメッセージを下さった。
 西日本区大会の説教タイトルは「熊本バンドなくば」にほぼ決定した。安堵・・
岩ちゃんが昼過ぎにきたのでM先輩と3人で食事に行った。2時間以上話が弾んだ。今日は岩ちゃんの55歳の誕生日だそうだ。そういえば私の56歳の誕生日は会議が3つ入っていてしかも病院当番だった。夕方になり17時過ぎから走った。今日の前半は昨日の飲みすぎがたたり顔が浮腫んでいた。ゆっくりだが1時間30分走ったので12kmは走っただろう。

熊本にしクラブ設立総会

熊本にしクラブの設立総会が1月24日熊本中央YMCAで行われた。設立準備委員長にとって設立総会の日はまさに一番スポットライトが当たる日である。祝辞と設立経過報告の二つの出番、および記念撮影ではにしクラブの設立メンバーと共に写真に納まる。しかし限られた時間なので祝辞と設立経過報告でも数分しか使えない、そこで記念誌に思いのたけの熱い思いを書いていた。

祝辞では、昨年4月の第1回設立準備委員会の日に、既にこの日が来ることを確信していたこと、これまで支えて下さった皆さんと、新クラブ設立に参集下さったメンバーに感謝し、切磋琢磨しながらクラブを通してもう一つの人生を楽しんで欲しいと締めくくった。
 設立経過報告では、新クラブ設立の為に3つのエポックがあったことを、阿蘇クラブ設立、岩チャンの引越し、亀さんの地元愛があったことを紹介した。もう一つエポックは水○さんがにしクラブへの移籍と初代会長に繋がる仮会長を引き受けるといった困難な道を理解したうえで、むさしクラブに入会してくれた事実がある。オバマ大統領の就任演説(共同)の一部からアメリカ合衆国をワイズメンズクラブに置き換えて話した。何人かは口調が変わったところで、気付いたようだった。
 「クラブ活動の沈滞やメンバー数の減少という試練に対して、我々が取り組んできたクラブを作りメンバーを増やそうと言う取組みは新しいものかもしれません。我々の新クラブ設立という成功は、勤勉、誠実、勇気、フェアプレー、寛容、好奇心、忠誠心、そしてワイズを愛するという価値観によって勝ち取られたものです。これらの価値観は真理であり、歴史を通してワイズメンズクラブ活動を支えてきた力でもありました。必要なことは私たちがこれらの価値観・真理に立ち戻り、新たな責任について考え認識しなければならないということです。すなわちワイズメン一人ひとりが自分自身や家族、仕事そしてクラブに対して責務を持っていることを認識することなのです。自分のエネルギーを困難な課題に注ぎ込むほど、達成感が得られ私たち自身を作り上げていくのではないでしょうか?いやいや受けるのではなく、喜んで困難な課題に取り組むことが求められているのです。」
 京都ウエストクラブの森田大先輩から「ワイズの夢 ペンタゴン構想」と題して、ワイズの楽しみ方について情熱を込めて語っていただいた。




 懇親会では、新メンバーの一人ひとりからスピーチをいただいた。個々のメンバーを大切にするクラブの雰囲気を感じた。会の最初から最後まで温かさを感じる思いがした。懇親会で水○会長に、「今日までは私が全責任を担いそして今日一番良い思いをさせてもらった、明日からは貴方が全責任を担い国際協会加盟認証状伝達式の日には一番良い思いをさせていただきなさい・・」とエールを送った。
写真は平○九州部部長から水○会長への支援金贈呈、えっ!小学校の同級生ウン十年ぶりの再会

2009年1月23日金曜日

登録委員会発送作業

約1700名への区大会要項やパンフレット、登録用紙の発送作業をした。むさしクラブとジェーンズクラブ、みなみクラブの20名くらいがむさしYMCAに集合した。50数名分の糊付けが済んだ頃、間違ったパンフレットを入れている!との佐○理事の指摘・・・




未だしっかり付いていなかった数部を除いて、一旦封を破る。約50部の宛名書き(万年筆でスラスラと)を担当した。

 写真のこっち側に見える封筒が置いてあるのが私の机。

 あっちの岩チャンと裕チャンは黙々と封の糊付けをしている。


西日本区大会の実行委員長亀ちゃんからドーナツの差し入れがあったが、早く済ませたいので、5分休憩で皆頑張った。
7時過ぎから約3時間、後片付けを済ませて最後に部屋を出たのは登録委員長で会長の今○さん、直前会長の米謙さん、副会長の村○さん、、そして帰りそびれた私だった・・・
流石にきつかった。
「宛名書き 年賀状で 訓練し」
賀状はほとんど印刷しているな・・・

2009年1月20日火曜日

当直(楽だったほう)

 夜間一次救急外来は相変わらす間断なく患者さんか訪れている。感冒(風邪)が多いが、インフルエンザ、感染性腸炎も増えてきた。0時までに小児科患者が救急車で数名運ばれてきたが熱性痙攣のようだった。この間大人の救急車はなく、出動協力医からの診察要請も無かったので、研修医の学会演題抄録作成指導や常勤医に対して行った救急車ホットラインのアンケートの解析・報告書作りをしていた。一度研修医と病棟・外来を見回りそろそろ当直室に行こうとしたところで、救急隊からの電話が鳴った(1時7分)。そうでなくては・・・
 トイレでふらつき気分不良となった高齢の女性だった。バイタルをチェックし、診察しながら病歴を聞いていく。必要な診察・質問を確認し、採血点滴指示して降圧薬を静注した。200近くあった血圧は平常に戻り、気分はよくなった。点滴処置室で明朝まで様子観察の指示を出した。明日は専門医の診察と降圧薬の処方を受けてもらおう。ご近所のご夫婦が付き添ってこられた。身内のように心配しておられた。田舎には近所付き合いという大きな力がある。

 さあ、少しでも寝よう。明日の午前中は全身麻酔の仕事と、学生講義が待っている!さっき仕事のリスト(今月中に済ませねばならないこと)をまとめたら9つも出てきた。パワーポイントに書いて、パソコンのデスクトップの背景にすれば忘れないだろう。
4時に救急隊から患者さん依頼。主訴は背中の痛み。30代女性、来院時は痛みは少し治まっていた。原因として考えられる疾患を解説しながら研修医に問診と理学所見をとってもらう。今できる検査は?別の患者さんの頭部CTを立ち上げて準備をしていたらICUから患者さんの酸素化が悪化しているとの連絡があり・・・・
 落ち着いた時には6時半だった。2時間半睡眠時間だったからまだましな方かな。


2009年1月18日日曜日

新しいコンピューター

家人の新しいコンピューター(一応Windows XPで2007とし、Vistaをダウングレードした。アップグレードも可能にしている)が届いたので、ミッチャンに来てもらって設定した。メネット事業主任就任祝い・慰労・誕生日およびクリスマスプレゼントなどこの一年間に予想される全てのお祝い事をカバーしたプレゼントとした。これまでのPCはWindows Meで、全てが遅く使うたびにカリカリしていた家人の喜びは察するに余りある。
 MeからXPへのデーターの取り込み、新しいプリンターとの接続、ウイルスバスター設定、使用説明などなど・・・おまけにMeでのラベル作り(新しいPCにはラベル屋さんのソフトが入らなかった)と印刷など、ミッチャンは大忙しだった。

 そして、風呂場の電球が切れたとの知らせ。家人は脚立に乗っても届かず、カバーが硬くしまっていたので息子は届くが非力、私は五十肩で取り外せず・・・結局ミッチャンが取り替えてくれた。神様みたいな人だ。
「新年に 幸せももたらす コンピュータ」
「五十肩 電球交換 ままならず」

人間万事塞翁が馬

 1月14日夜病院から帰ろうと外に出たら悪寒が走った。15日から16日にかけて体がだるく、16日から17日は何回もトイレに行った(watery diarrhea)。17日はウルトラマラソンクラブの新年会(金峰山往復走の後、大福湯で汗を流し鶴重で宴会)だったが、涙を飲んで欠席した。ビールも焼酎も飲めないほど体調が悪かった。
「腸炎が キャンセルさせた 新年会」
 17日午後、時間が空いたので、オーパで髪を切った。15時、壁掛け時計の音楽が素晴らしかったので写真を撮った。オーナーから「バリアフリーのスロープを紹介してよ」とリクエストがあったが、次を急いだので写し損ねた。




 むさしYMCAで西日本区大会の登録書類発送準備(ラベル貼り)があるので手伝いに行った。1700枚だが皆で協力して40分くらいで完了した。気になっていた「にしクラブ設立総会の準備も少しはできた。その後ユニクロに行ってスウェットセットとしまむらで長袖シャツとズボン下を買った・・何という倹約・・・。家に帰って車から買い物袋を取り出しながら気付いた。パソコンをむさしYMCAに忘れてきた!!取りに戻ったが近道を発見した。
おまけがあった。「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」をテレビで観ることができた。新年会に行ってたらきっと眠りこけて観れなかったことだろう(負け惜しみ)。
 今日は折角の新年会なのに・・・と思っていたが、懸案事項がいくつか解決した。こんな日も、まっついいか。
「冬日落ち 忘れ物取り 自分責め」 
「未だ15 ハリー・ポッター 活躍し」

2009年1月14日水曜日

幻のウインフィル

 患者さんのご家族から、ウインフィルハーモニーオーケストラ演奏会のチケットを2枚いただいた。が、今日が開演。夜の予定がなかったので家人を誘ったがつれない返事だった。自分の予定は?を確かめなきゃと思い手帳を見たら6時過ぎまでかかる会議と明日の麻酔準備と患者さんへの説明、早く済ませねばならない書類のリストが出てきた。
 結局、姉夫婦に譲ることにした。S席で前から4列目・・・アーッツとため息が出た。18時半に姉が受け取りにきた。書類書きをはじめたら、私でなくてはいやだ・・という我が儘な患者さんが受診して当番医を困らせていると言う連絡が入った。残ってて正解か?
 23時過ぎ、やっと書類作成が終わった。「今から帰る、飯はまだ」のメールを送ってから帰ろう。

2009年1月12日月曜日

1日遅れの鏡開き

 緩和ケア病棟の受け持ち患者さんの状態が悪く、朝から何回も部屋を訪れた。2ヶ月近く受け持っているので家族のような、母親のような存在になっている。
 うちでは一日遅れの鏡開きをした。餅が沈んでいたが、家人が見栄えが悪いと引き上げた。「写して良いよ」と許可がでたので写真を撮った。味はもちろん美味しかったが、高校サッカーで鹿児島城西が勝てばもっと美味しかったのに・・・

 今日の相田みつをの言葉は「アノネ がんばんなくってもいいからさ 具体的に動くことだね」
 2日間病院をあけたので、することが多い。 横島いちごマラソンの参加料は振り込んだのに参加申込書を出すのを忘れていたので速達で送った。日本麻酔科学会理事長予備選挙の投票用紙を簡易書留で送った。壊したメガネの部品が届いたので修理引き取りに行った。猫背の矯正にとインナーマッスルのシャツを2枚注文した。町には晴れ着の成人式を迎えた女性を多く見かけたが、写真は撮り損ねた。
 デスクの上にはやるべき仕事を箇条書きにしているが、消す度に何かが増えている。具体的に動かなくては。阿蘇の山々は雪が積もり白くなっていた。
「北風に 向かって走る 負荷をかけ」
「冠雪や 山道走りは 溶けてから」

2009年1月11日日曜日

次期西日本区役員研修会

 次期西日本区役員研修会が1月10-11日大阪で開催された。私の役割は開講式でのお祈りとキリスト教理解講座の準備(講師お二人にお願いすること)、初めての方用のAコースの司会と11日の聖日早天礼拝の司会。
写真は参加者の集合写真
 ワイズメンスクラブは異業種の方々が集まる奉仕団体。YMCAとともに奉仕活動をしたり、YMCAに奉仕するので、YMCAのYをとってY's Men's Clubという。Menとはあるが女性メンバーも多い。YMCAはYoung Men Christian Association(キリスト教青年会)の略で全世界124カ国約4500万人が参加する世界最大の社会教育団体である。西日本には87クラブ約1700名のメンバーがいる。メンバーの大半はキリスト教徒ではないので、ワイズメンスクラブのバックボーンであるキリスト教の精神(愛と奉仕の業を実践)を判りやすく説明し、理解を求めるのが私の役割だ。聖日早天礼拝では教会の礼拝をそのまま行うのではなく、他の宗教の方でも参加しやすいように配慮する。キリスト教の文化に触れていただくと言ったほうが的を得ているかもしれない。
 研修会の企画・運営に奉仕くださるリーダーシップ開発委員会のメンバーや講師を引き受けてくださったメンバーの熱意にはいつも頭が下がる。研修会の中で、大〇さんが「奉仕クラブとは、他者と定期的に親睦の心を持って集うこと(人たちのグループ)である。その繰り返しにより『自己研鑽』が起こり『自己改善』へつながる。そこから生まれたエネルギーを何らかの形で職場、家庭、そして社会改善のために使うようになるが、最も利益を受けるのは、自分自身であることを知ろう」と話された。なるほど自分のために投資するのが会費なのか。ワイズメンズクラブは人生の学校であり、より良き人生を送るための勉強のために異なる職業の方々と健全な交友関係をもち、親睦を深めるのだと改めて実感した。
 もうひとつの目的は家人のかばん持ち。メネット事業主任という大役を6月まで担う。
「妻主任 夫は当然 かばん持ち」
10日の懇親会では、早々に寝てしまったが、11日朝は5時半に起きて6時から 淀川河川敷を5kmほど走った。大阪は快晴。鳥取から来られたメンバーが天気を羨ましがっておられた。山陰では曇りや雪の日が多いという。 写真は夜明け前の淀川河川敷から大阪市街地を望む と 夜明けの淀川河川敷
2日目にはむさしクラブの岩チャンが次期部長の皆さんに部長としての基本的な知識・目標・計画についてのレクチャーをしていた。
聖日早天礼拝で集まった献金6万円が鹿児島YMCA設立のために贈られた。鹿児島YMCA設立準備委員会副会長中○さんは感激してお礼を述べられた。頑張れ!!

2009年1月10日土曜日

俳句

 1年10ヶ月前になるだろうか?外来患者さんが多く、待ち時間が長くなった。ご高齢の女性が何と3時間待ちで診察室に入ってこられた。私は最敬礼で迎え入れたのだが、ニコニコしておられた。待っている間に俳句を考えておられたとか、実によい作品ができたので喜んでおられたらしい。3月末の花冷えの頃。

「花冷えや 待合室に 三時間」

この方が私の俳句の師匠となった。2週間ごとに通院されるので、それまでに2句を準備する。季語が無かったり、2つ入っていたりだが、いつも誉めてくださる。物事の視点が異なるのと、興味の世界が全く?異なるので面白いようだ。

今日受診されたが、何か印刷物を持ち笑いがこみ上げているご様子。何と私のブログだった。この中で誉められたのが  「初日の出 やきもきさせて 雲の中」   元旦に師匠もやきもきしながら初日を待っておられたと言う。
家に帰ったら、昔大学病院の手術部師長をされていた岡○さんから句集が送られてきた。年賀状に俳句を書いていたので、喜んで下さったようだ。少し読んでみたが、私とはレベルがプロ・アマ以上に離れていた。今年も頑張ろう。
 もう一つ嬉しかったこと。小学校と高校で同級生だった幼馴染?の娘さんが救急医療現場の取材に来られた。アポイントメントを取りに電話をもらった時は、この忙しい時に・・と思いながら乗り気ではなかったが、終わり際「実は私の母は・・・」との話し。これで私の態度は180度変わったのは無理も無い。この記者さんは携帯電話のカメラで私の写真を撮った。お母さんに送ると言う。一所懸命に笑顔を作った。

ワイズメンズクラブ例会2夜連続


1月7日に熊本にしクラブの1月仮例会が全日空熊本ニュースカイホテルで開催。20数名の会で、全員が今年の抱負を述べ実にアットホームな会となった。1月24日の設立総会に向けたオリエンテーション・レクチャーでは豪腕岩チャンの豊富な資料がまばゆかった。写真は挨拶する水○会長と皆を写している亀ちゃん。

そして1月8日はむさし・みなみクラブ合同新春例会がホテル日航熊本で開催。ここには研修医2名も連れて行った。正月にふさわしく、テーマは酒(日本酒)、先の汚染米事件で大変被害にあった地元美少年酒造を励ますのも趣旨の一つ。数種類の美少年の酒を解説してもらいながら飲んだ。最後はオークション。36,000円の収益があり、2つのクラブのファンドに入った。
こっちを見ているのが右今○むさしクラブ会長、左杉○みなみクラブ会長 

2009年1月7日水曜日

七草粥

家人の朝のメモ帳に七草粥と書いてあった。なるほど台所にパックに入った七草粥が2パック置いてあった。

ここまでブログに書いていたのを家人が見つけ、できた七草粥も写真に収めよとの指令があった。色彩があまりないのでおいしそうには見えない・・・
でも美味しかった。
この夜、パックではない買い揃えた七草でしっかり七草粥を作ったと家人は言っていたが、残念ながらそれは私の口に入っていないし、見てもいない。

2009年1月6日火曜日

麻酔科新年会

毎年の行事になっている麻酔科新年会は、昨年から自宅での開催を止め、「鶴重」でしている。年に一回位自宅にうちの麻酔科と縁のある皆さんを招待したいのだが、何せ家が片付かない。さて今年は1月5日に開催、参加者は、麻酔科スタッフ3名と家族2名、研修医5名、私のPCの主治医佐○さん一家3名と家人と娘そして私の16名だ。

 家からとっておきの(家人にバザーやオークションに出されないようにしっかり言い渡していた)焼酎(魔王)と日本酒を持ち込んだ。佐○さんちのひーちゃんが最年少参加者2歳、高○先生の次男坊は随分しっかりしておりお父さんもタジタジ、後○先生の長男は手品を披露してくれた。研修医の一人が娘と高校の同級生ということも判明した。焼酎と日本酒が美味しくて、ビールは最初の一杯のみだったが、今回は最後まで寝てしまうことなく、しっかりしていた・・・と思う。多分横に娘が座っていたからだろう。
「三が日 飲み食い走り ブログ書き」

2009年1月4日日曜日

納得

 三が日の間、家人がとっても穏やかだった。いつもなら口げんかをしながらレポート作成をするのだが、優しいのだ。
 原因が分かった。新聞の運勢に、11月「不満や不平は三が日は我慢。4日からは急速に解消へ。」と書いてあった。自分も11月生まれだからなるほどと納得。今朝は朝トレ+ルーチンワーク。今日の運勢には「我以外皆教師」と書いてあった。

2009年1月3日土曜日

三社詣で

折角の正月休みなので、趣味と仕事およびメタボ対策を兼ね、通勤ランをすることにした。行きは日ごろの通勤路。車ではなく走るので色んな気付きがあるだろう。


写真は坪井川から熊本城を見る。

3号線沿いを避け、坪井遊水地公園から寺原を抜ける。日ごろは車が多く、7時45分を過ぎると京町台に上がる瀬戸坂は車が数珠繋ぎになる。今日は車がいない!




京町には熊本地方裁判所、検察庁などがあり、弁護士事務所も多い。5月から始る、裁判員制度の垂れ幕が裁判所にかけてあった。

今年3社目になる熊本城内にある加藤神社にいった。ここで巫女さんたちの記念写真撮影に遭遇した。中高の運動部員らしいグループの参拝もみかけた。



快晴の空をバックに熊本城が映える。

「冬晴れの 空に浮き立つ 熊本城」
途中きれいな白いサザンカを発見した。車では気付かない。娘の勤務先を横目で眺め・・・記念写真。いつもこの付近で降ろす。いわゆるアッシー君?


入院患者さんの回診の後、走って帰ることにした。繁華街を通って違うルートで京町台を通る。
熊本の繁華街は下通り、上通り、新市街など。下通りではアーケードの工事中だ。道に福袋を並べている商店も合った。が
「福袋 今年も見るだけ 意気地なし」 
要らない物があっても困るだけ・・・かと言って持ち合わせは数千円だったから。
通り町筋の電車通りから京町台へ上った。直ぐ右側に第7代熊本市市長を記念した高橋公園がある。ここには谷干城(たに たてき 西南戦争時の熊本鎮台司令官)の像と、横井楠南と維新群像(中央が横井、地球儀を挟んで未来世界を語る勝海舟と坂本竜馬)があった。今まで知らなかった。大発見だった。
旧3号線沿いに北に向かい、往生院を過ぎてから右折し稗田、津浦を駆け下り坪井川遊水地公園に来た。
 冬の紫外線を浴びて元気が出た。帰って高校サッカーを観ながら年賀状書き、家人のレポート作成手伝い、そして催促のあったブログ追加と作成。明日までに仕上げないといけない原稿があることを思い出した。

2009年1月2日金曜日

遅すぎた・・・

平成20年12月31日付けで資格が切れた認定証が部屋に飾ってあった。 日本救急医学会認定「救急科専門医」なのだが、5年間のうち3回は日本救急医学会総会への出席義務がある。全国学会の出席は、代議員や評議員をしている日本麻酔科学会、日本ペインクリニック学会、日本医療マネジメント学会を優先せざるを得ない。学会優先で日常診療を停滞させるわけにはいかない。とにかくマンパワーが無いのだから。
 これでわが病院の救急科専門医はいなくなった。せっかく3年前に専門医移行試験まで受けて取得したのに・・・
 この年で資格試験は受けたくないのだが。
 2日の12時10分、この写真を写して帰ろうとした時、ドクターハートコール(心肺停止患者が発生至急集まれ)があった。救急搬入口に駆けつけると幼児が必死の蘇生法を受けていた。何とか心拍再開した(心臓は動き出した)が、心臓が停止したと思われる時から既に10分以上経過してからの蘇生開始なので回復は厳しいだろう。この時間、仕事(帰ろうとしていた自分も含めて)をしていた医師10数名が集まった。看護師を含めて救急蘇生のトレーニングは何回も行っているが、小児とくに乳幼児の場合には小児科専門医(Pediatric Advanced Life Support Provider)がチーフになって取り仕切る。この間救急車受け入れはストップした。

2009年1月1日木曜日

元旦ラン

 2日間も禁酒を守ったが、夜更かしがたたり6時半起床。ラン仲間数名は7時立田山山頂集合し、立田山・お萩山・三ノ岳・二ノ岳・金峰山の五山を一気に駆け抜けるとお誘いがあった。 が、8時半までは当番なので、ひとり立田山へ。K高横の山道を進んでいくと世継宮にショートカットできる。ここで初詣をする。
未だ人出は少ない。
「山道で あう人毎に おめでとう」


そこから立田山山頂までは落ち葉が道を隠す。

時にはサザンカの花びらが道を飾ってくれる。

山頂に着いたときには小雪が舞い始めた。雲が多く東の空は明るくなったのだが未だ初日は姿を見せない。

立田山を熊本大学の方に駆け下りた。熊大と済々黌の間の路地を走っている時、雲の合間から初日が顔を出した。

「初日の出 やきもきさせて 雲の中」

子飼商店街は閑散としている。店の戸には、1月5日または6日から営業と張り出してあった。


子飼商店街から碩台小横を抜け藤崎宮に寄った。意外と人出は少なかった。

白川右岸緑地公園を走っていると熊本大空襲の記念碑があった。ライオンズクラブからの寄贈のようだ。


熊本大学病院の新棟工事が続いている。そしてやっとわが病院に到着、二社詣でをしてきたので1時間半かかった。日章旗、熊本市医師会の旗は掲揚前だった。外来事務、外来ナースステーション、緩和ケア病棟と4階南病棟のナースステーションに年始の挨拶をし、入院で年を越した3名の患者さんにも挨拶した。皆さんとっても喜んでくださった。9時半に帰り朝風呂に入り、10時から家族そろって正月のお屠蘇・雑煮・おせちを囲むことにしていたので、途中バス代190円分ワープした。
おせちは、亀井ランチの薬膳おせち、なかなか美味しかった。感謝。
 このブログが完成したら、年賀状書きを始めよう。

他に準備した料理とともに家人と記念撮影をすることにした。家人が気に入った写真に なった時には、自分の顔は既に強張っていた。

走っているときに作った俳句を忘れたようです。思い出したら後で追加します。