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2013年11月19日火曜日

満月?

19日、日曜から来日されている、スウェーデンのルンド大学のエスキル先生とマグヌス先生がモーニングカンファレンスでミニレクチャーをしてくれた。ホロボロスと言う器械を使ったミトコンドリア呼吸機能の測定と、この実験系の臨床応用についての内容で興味深かった。T医科大学麻酔科とルンド大学の研究室とは頻繁に交流している。若い医局員には是非研究のチャンスを生かして欲しい。




越後湯沢は紅葉真っ盛りだが、そろそろ散りそうだ。








帰りの新幹線から大きな満月が見えた。月齢は15.6日のようなので昨日が満月だったのかもしれない。1718日と夜のジョギングを敢行したが、今日もできるかな?朝、布団の中でグズグズしているので、朝通勤ランができていない。

2013年7月16日火曜日

忘れ物とくまもん3本セット

今日は、ブログのネタにたくさん当たる。
新潟から帰りのMaxときは混んでいた。早く出たかったのでさっさとリュックに荷物を詰めた。
丸ノ内線の改札を通ったところでお土産を忘れたことに気付いた。引き返してプラットホームの事務所に行った。新幹線名と車両番号、座席、三箱の御菓子が入った袋を忘れたと話すと、そのまま御菓子の入った袋が手元に戻った。日本は素晴らしいと思った。


病院に帰ると、熊本の後輩のH先生からお中元が届いていた。どうも焼酎のようだ・・・(笑顔)。
開けたら「くまもん3本セット」が入っていた。真ん中にある「白岳(はくたけ)」は人吉の高橋酒造の球磨焼酎で、高橋酒造は「ロアッソ熊本」のメインスポンサーだ。ありがとう!

鼻水セット

最近左鼻が詰まって困る。詰まるだけなら許せるのだが、鼻水がすたすた出てくる。部屋にいる時はティッシュの箱を手元に置いておけばいいのだが、外に出ている時はポケットティッシュは無くなりハンカチは濡れる。仕方なくティッシュを右鼻腔に詰めてマスクをするのだが、下手をするとマスクまで濡れる。
左鼻だけの花粉症ではなさそうだ。新潟の病院売店で、ポケットティッシュ、マスクとハンカチを買った。名付けて鼻水セットで563円だったが、マスクは「花(粉)取物語」と命名されていた・・・。お見事!

2013年4月16日火曜日

ブランコ

恵比寿駅の近くにある恵比寿南一公園の前を通りかかると、ブランコにリクルートスーツを着た若い女性が座って一生懸命に漕いでいた。何もあんなに漕がなくても・・・と思った。

K中央病院のO澤先生と話している時にその女性の話題になった。どうやら30分以上はブランコに座り漕いでいるらしい。顔の表情も厳しかったようだ。心配になってきた。女医のA木先生にお願いして様子を観に行ってもらうことになった。写真は恵比寿南一公園のブランコ。
流石にA木先生は直接公園にはいかず、病院の5階から公園を観察したという。すでに女性は立ち去った後だったようだ。
男二人は、いろいろなことを考えすぎていたのだろうか?

2012年4月9日月曜日

相馬市訪問

4月7日Mさんの紹介で、相馬市のNさん宅を訪れた。満月が大きく西の空に輝き、Nさん宅に近づくと右手に広大な空き地?が見えた。昨年の3.11黒い大きな津波が押し寄せその空き地を埋め尽くしたという。Nさん宅の玄関先まで海水が来たとのこと。空き地側の道路には車や瓦礫が流れ着いたそうだ。熊本の松〇さんから送っていただいたナスとキャベツの御すそ分けと新潟で入手した日本酒・お菓子を手土産に持って行ったが、結局日本酒は自分の胃袋に消えて行った。
Nさんの手料理はまさに相馬のおふくろさんの味がした。相馬は漁業と観光(小松島)の地だそうだが、津波と原発事故の影響で漁ができなくなったとのこと、「本当は地元の魚を出してあげたかったんだけど・・・」と言われて、恐縮した。
8日は5時過ぎに起き、海岸の方に歩いた。恐らく津波が到達したであろうあたりのガードレールが曲がっていた。朝食後、Mさんの案内で相馬の海岸線に向かった。
堤防が壊れ一面の更地に家屋の土台だけが集落があったことをうかがわせる。Mさんは大きくため息をつき涙ぐんでおられた。子どもの時遊んだ砂浜や住んでいた集落は変わり果てていたから。


写真は破壊された堤防。





南相馬に向かった。途中検問所があり進入禁止になっていた。


広大な更地の中に瓦礫の山が幾つもあった。

多数の車が置いてある場所があった。その多くが激しい衝撃を受けた痕があった。あの日から車には〇や×の印しが付いていたことを教えてもらった。

相馬港の堤防に打ち上げられたら漁船があった。漁港や水産加工業の復興には大きなエネルギーと時間を要する。

相馬市会議員のKさんを紹介していただいた。kさんは昨年11月延期されていた選挙で当選した一年生議員。相馬の子ども達に負の遺産だけを残せない!と立候補を決意したという。地域起こしのアイデアを提案し実現に向け動き出したプロジェクトをいくつも持つ。信じられないような行動力と頭の回転があり、語る言葉に情熱と愛情を感じた。名刺を交換した。イメージキャラクターはウルトラマンいやウーマン。「3分では帰りません」と但し書きがあった。

まだ自分たちには住める土地や家がある。元に戻すより発展させたいと夢をを語り実現せようとする。津波の被害を受けた東北四県の海岸沿い八十八箇所の名所を巡る東北お遍路構想は動き出している。このようなリーダーを育てて欲しい。 
東北自動車を走り安達太良山パーキングに入った。福島の人々の中にはこの山を見ると帰って着たと実感する人もいるという。日が沈み薄暗くなってきたが写真に収めた。

2012年3月2日金曜日

フリーダ送別会

3月1日は学会場はホテルとは目と鼻の先なので、ゆっくり朝食を取った。マラソンも済んだので体重コントロールを忘れてちょっと食べすぎたか?
教育講演(凝固線溶系の知識)を拝聴し、T医科大の奈〇先生が発表するポスター会場に行った。予演会とは打って変った堂々とした発表だった。質問にもはきはき?答えていた。写真は発表が済んでほっとした奈〇先生を囲んで。
午後2時半に面会の約束があったので、帰途についた。田〇さんや近〇さんが医療機器展示会場におられたので、しばらくお話しすることができた。
京葉線で東京駅に行き、ラーメンストリートで塩ラーメンを食べた。病院に戻って緩和ケアチームと回診し、部屋にいたら面会の方が来られた。
夕から、手術室安全会議、医局会と続き、午後7時過ぎからフリーダの送別会が「さつき」であった。自分は熊本から送ってきもらったドイツ赤ワインを持参したが、フリーダはドイツ人ながら梅酒のソーダ割が好きなようで、ビールも赤ワインも飲まなかった。京都や東京周辺を観光してから帰国するそうだ。いつかまたどこかで会えるだろう。元気でねフリーダ。

2011年9月8日木曜日

ラーメン屋

朝走って病院に行ったが、明日は夕方から熊本に行くので朝は走れない。ということで、勤務を終え午後7時45分に病院を出て速足で歩いて帰ることにした。野方の環状7号線沿いに評判の良いラーメン屋さんがあることを聞いていた。ジョギング姿で行くのは気が引けるので、ズボンに半袖ワイシャツで中に入った。
ラーメンは薄いとんこつ風だが、味が奥深く、スープはあっさりからコテコテまで5段階に、めんの硬さも数段階に分けられており選べる。キムチは自由に食べることができ、生のにんにくが置いてあり、自由に擦って加えることができる。
東京にも、こんなラーメンがあったんだ!と感激した。近くの陸橋から写真を写した。帰りはいつも電車を使っていたが、ラーメンを楽しみに歩くことも良し。しかしこれでは、ウエイトコントロールが難しくなる。

2011年8月16日火曜日

東京でのお盆

空き箱にきれいな風呂敷をかぶせた。いつもは書斎に置いている、両親と祖母の写真と位牌を飾った。昭和20年8月祖母は種子島で空襲をさけるように暮らしていた。父はチモール島で軍医、母は鹿屋の療養所で内科医として働いていた。それから66年、そして8月15日は終戦記念日。今週は夏休みをもらっているのだが、溜まった仕事で病院通いをしている。
8月15日朝、ジョッギングで病院に行ったが、いつもは混雑している環状7号線も青梅街道もガラガラ空いていた。10月にはお墓参りに種子島に帰ろう。

2011年7月28日木曜日

話し合い兼飲み会

 手術部で日々のリーダーやICUのリーダーを務めるメンバーと食事会を兼ねた話し合いをした。一人が都合で参加できなかったが、率直な話し合いができてよかった。自分とは20年弱若い医師たちで、丁度自分が前任地に赴任した年頃だ。彼らは皆真面目で勉強熱心、周りにも良く気遣っている。彼らにアドバイスできることは、「将来は自分たちで切り開かねばならないが、先輩たちの生き方などが参考になる。これからの数年間が大切であるということ。自分たちの可能性をもっとポジティブに考えること。大きな組織の中で働いているので、他科医師や他職種のメンバーとの協調性が大切であること。きつい時こそ皆と共に頑張り抜くムードを作れること。」

 この年代は、どのような方向に進もうかを悩む頃だ。もっと多くの時間をとって話してあげられたらと思う。

 食事会会場は、病院から歩いて10分ほどの2階建てのお店。隠れ家のような2階に上がると座敷があり、まるで熊本の店で飲んでいるような雰囲気だった。特筆すべきは終了時にも自分は元気で眠っていなかったこと。病院に戻ってメールをチェックしてから終電前の電車で帰ったが、家についたときは午前様だった。

 新潟土産(ほとんど即席ラーメン)と湿布薬を持って帰ったので、家人のご機嫌はまあまあだった。しばらく家人と孫の話をしてから夢の世界に突入した。明日は、もっと年配のメンバーと話しをしよう!U教授のことか???

 その前の日は外来グループの歓送迎会が天王洲のレストラン&バーであった。さすが東京、今まで行ったこともないような洒落た店だった。ベルギービールのお店のようで、最初はビールを飲んでいたが、最後は芋の水割りになっていた。
 考えてみたら、二日続きの午前様だった。もっと体を労わらなくてはと思ったが、もう一度行ってみたい。

2011年4月27日水曜日

訪ねてきた後輩

 東京では熊本から送った段ボール25箱の整理を頑張った。あと7、8箱届くが、何処にしまえばよいのだろう。
 午前いろんな手続を済ませ、午後の飛行機で熊本に戻った。熊本は雨、寒かった。17時過ぎに後輩のS先生が訪ねてきた。彼が大学に入学して以来だから、34年来の付き合いになる。絶好調の時も、どん底の時も一緒に頑張った。今は新しい道に進んでいる。
「おめでとうございます」と言われた。この年にして新しい道を与えられた喜びがきっと祝福されるべきことなんだろう。「ありがとう、東京に遊びにおいでよ・・・」
 帰りにひなた」の所によって、KLCCの最〇さんに集まった募金を渡してから帰った。家人が家の片づけと自分の荷物を引っ越し便で送ってくれていた。頭が上がらない。すごい人だと思い、自分がこれまで全くお世話になってきたのだなと感じた。

2011年4月4日月曜日

当直と当番

 4月11日を当直にしていたつもりだったが、今日が当直になった。そう言えば、今日を麻酔科当番にしているので、夜中の緊急手術がないことを祈る。昨日の35㎞が足にきているが階段の昇降はできる。日中は病棟の患者さんと病院裏の公園に花見に行った。天気が良く暖かだったが、時折吹く風で花弁が散った。帰り際、彼女はスタッフへ飲み物を差し入れしたいと自販機で買い物。私もZERO CALのコーラをご馳走になった。ありがとう!
 思い切った雑誌類の処分をしないと、片付かない。2年分の雑誌だけは残そうとか考えると、かえって捨てられない。明日は午後から年休を取って、書類の準備や講演会準備に時間を使う。18時45分の飛行機で東京へ。水は持って行ったほうが良いだろうか?

仕事家庭趣味

2日の土曜日は熊本ホスピス緩和ケア協会の春の集いを開催。県内11施設のうち10施設32名が参加くださった。各施設での問題点を提起しながら自己紹介をお願いし、その後分団に分かれて討議し発表した。問題は山積するが、多くの仲間がおり少しずつ解決の方向に向かっている。
夜は娘夫婦が夕食に招待してくれた。自分と同じ名前のイタリアレストランでゆっくりとした時間を持った。ひなちゃんは2500gに近づいているという。家の片付けを急がねば・・
3日は小楠公園に7時集合で壮行マラソン。標高差が1000m近くある外輪山を越え、南阿蘇村久木野の「四季の森」に走る。最初の7.8㎞(津森の四つ角)までは先頭を走らせてもらった。上り坂はお先にどうぞ。
「姪の背を追いかけ越える峠かな」
「ポリ袋被りて凌ぐ山おろし」
途中までは桜がきれいだったが、次第に3分咲き、蕾になった。道端に蕗の薹が顔をだしており、テンプラ用にいくつか採った。
高圧送電線が走っているが、東日本につながっても利用できないのはもどかしい。
四季の森には12時15分到着。温泉に入り。壮行会をしていただいた。皆さんに褒められ恐縮。今日は来れなかったが、書家のYさんから素晴らしい色紙をいただいた。感謝。
「生かされて今年も走り花見酒」

2011年3月23日水曜日

帰省

3月20日~22日まで鹿児島と種子島に帰省した。20日教会礼拝後に鹿児島の家人の実家へ。家人の実家があるので家人の父母と夕食を共にした。
家人が母に携帯電話をプレゼントし、一生懸命に使用法を教えていた。久々に焼肉を食べたが、義父は良く食べ良く飲まれたので一先ず安心。
21日朝、6時前から約30分のジョギングをし朝シャワー。8時の高速艇で種子島に向かった。種子島は雨。先ずは家の掃除をみっちりし、「鶴瓶の家族に乾杯」で紹介されたことのある「風車」で昼食(トビウオ定食)を摂った。ご無沙汰している親戚や、家の管理をお願いしている方への挨拶をして墓参りに行ったが、雨が激しくなったので掃除は延期した。
夕食は、幼馴染のJ君と家人と3人で「味処井元」でいただいた。J君は昨年東京からUターンし広告関係の仕事をしている。高校の同級生で東京在住のH君に電話をした。彼も同郷だ。種子島は平家の落人の受け入れの時代から、多くの難民を受け入れてきた歴史を持つ。温暖で何を作っても育つ。決して飢えず、人情も厚い。大震災で多くの人々が家を失ったが、きっとその役割を果たしてくれるに違いない。
22日は晴れたので、朝からゴミ出しをしたり墓参りと掃除をした。11時の高速艇で鹿児島に行き、鹿児島の土地の件で市役所や法務局を回った。土地が遊んでいたので、駐車場にする準備を進めた。新幹線「さくら」で熊本へ。駐車場に着いて、車の鍵がないのに気付いた。後で新幹線の座席に落としていたことが分かった。着払いで送ってもらうことにした。病院に行き、入院患者さんを診てカルテ書きをしたら23時を過ぎていた。明日からまた忙しい毎日が始まる。

2011年3月18日金曜日

送別会2日連続



16日熊本一鶴会の医師・歯科医師の皆さんの会で祝賀会をしてもらった。今朝は桜の枝に蕾を見つけた。お世話になった、柏〇元医師会長、持〇院長、元倉〇元附属病院長からお祝いのお言葉をいただいたが、自分の結婚式のように褒めていただき、恐縮した。参加くださった皆様一人ひとりからご挨拶もいただき、感無量だった。家人と姉も出席し、挨拶をしたが、自分の挨拶より、(何を言うのだろうか・・と)緊張した。 2次会には5名で行った。緊急手術で遅れてきた谷〇先生とも会うことができた。
17日は手術室の送別会だった。会議が重なったために、外科の院長・副院長が欠席されたので、少し寂しかった。
自分は麻酔科当番なので、ウーロン茶で乾杯し、お湯のお湯割りでつないだ。手術室スタッフから記念の写真付き寄せ書きをもらった。宝物が増えた。手術室の師長に記念品代を贈った。コーヒーメーカーと何か良いものを買って欲しい。終了後病院に戻って、患者さんの状態を確認して帰った。
今日は俳句の外来日、どうしても震災のことが気になった。
「震災を生きながらえて春を待つ」
 「発火せし原発冷せよなごり雪」

2011年3月14日月曜日

高校同級生の会

 日曜の夕方、熊本・鹿児島・福岡の同級生が集まってくれて送別会をしてくれた。震災の後だったが、敢えて東京に向かう自分を勇気づけてくれた。
皆さん、子どもさんや、親戚の方とは何とか連絡が取れたようだ。しみじみ今いのちがあることに感謝し、集まってくれた友人に感謝した。
 月曜は病院当直だった。救急車で搬送された患者さんが大人2人、小児科が数人おられた。重症の方はおられなかったが、病棟での急変その他があり、3,4時間の睡眠になった。被災地を考えると、恵まれた当直だと思った。福島原発の様子がとても気になる。今年の夏は東京では冷房はあきらめたほうが良いだろう。

2011年3月13日日曜日

悲しみの中での学び

3月11日朝K高の周りを走った。桜の木はまだつぼみもしっかりしておらず、今年の寒さを反映していた。しかしよその家の玄関の花は春を謳歌しているようにきれいだった。
外来診療の途中待合室のTVに想像を絶する津波の様子が放映されていた。ラジオをつけたら、東北地方で巨大地震が発生し、大津波が襲ったこと。多くの人々が被災されたこと、東京も震度5強の強い揺れが生じ、通信・交通がマヒしていることが分かった。東京の息子と家族の無事が分かるまでは気が気でなかったが、患者さんの前では気丈に振る舞った。
翌日の新聞のテレビ番組欄は、東京をキーステーションとする番組は白紙だった。
3月12日朝大阪に向かった。Y'sMen'sClub西日本区の次期会長・主査研修会に参加するためだが、同日御殿場で開催予定の東日本区の研修会は中止だとの連絡があった。開会祈祷で、震災被災者・ご家族の皆様のために祈った。東日本区の分も学びの時を持つことを誓った。13日5時に目が覚めた。5時20分から、淀川べりを河口に向かって走った。淀川の巨大堤防で大阪の街が守られるのだろうか?YMCA日本同盟で救援支援担当をしているMさんの話しを聴いた。平原綾香のジュピター、この曲は中越地震復興のテーマソングだそうだが、を流してくれた。涙が出てきた。悲しみを乗り越え、生きてほしい。

2011年2月16日水曜日

バレンタインデイと講演会

2月14日は月曜日でバレンタインのチョコレートがたくさん届いた。しかし、15日には医師会の学術アーベントでの講演会があり、準備のために午前様になった。タイトルは「慢性痛との戦い:熊本地域医療センターでの20年間の経験から」と大上段に決めた。統計や事例、海外論文や自分の論文の紹介を80数枚のスライドを使って説明する。やっと準備が済んだのが0時を回っていた。
さて15日、事務局に贈ったはずのPower Pointが届いていなかったり、自己紹介の書類が改訂版でなかったりで、講演会の始まる1時間前はバタバタした。しかし、本番に強い・・・のが、いざ講演会が始まったら落ち着いて話していた。
質問コーナーで「どのようにしたら気持ちを切り替えるとができるのか?そのように優しくできるのか?」という嬉しい質問があった。謙遜して「飲んで走るからでしょうか?」と答えたが、もう一つ、月2,3回に出席する教会礼拝で牧師さんの説教を聴きながら、優しくならなくてはと自分に言い聞かせるもう一人の自分がいるのが本当の答えかもしれない。 写真は後で。

2011年2月14日月曜日

両親の記念会

両親の記念会を、2月12日母の命日近くの休日に姉一家とともに行う。2月13日夕から、7名が集まり思い出を語り、会食を共にした。両親が召天しそれぞれ21年と14年が経った。その間3人の孫が結婚した。父の酒(焼酎)飲みの遺伝と、母の患者さんに優しかった遺伝?は受け継いだようだ。
自分の結婚指輪は銀のネックレスに通して首にかけている。霧島で露天風呂に入った時にそのままにして入ったので、酸化して茶色になった。エルサンク(買ったお店:友人の)に行って直してもらおう。

2011年1月24日月曜日

緩和ケアの基本教育に関する指導者研修会



日本緩和医療学会の緩和ケア指導者研修会受講に船橋市に行った。121日(金)午前845分受付で9時から始まるので、20日(木)の最終便で羽田に向かった。丁度羽田から船橋駅までのバスがあり、ほとんど直通でJR船橋駅前に行けた。熊本空港で出会ったT先生に教えてもらい同行できて感謝。T先生の宿舎は会場のクロスウェーブで自分はビジネスホテル、途中のコンビニで夕食と飲み物を仕入れた。

夕食?夜食?


翌朝6時起床し、南に向かって走った。大きな工場?群を回るように走ったら葛南港があった。研修会には63名の研修生が全国から参加。診療科、年齢も様々。昨年熊本市民病院で受講した内容に加えて、研修会を主催する際のノウハウや双方向講義、ざわめき効果(グループでの話し合い)、ロールプレイを活用した研修などを学ぶ。実にタフな3日間になった。楽しみは、食事。研修施設にしては(失礼)実においしかった。夕食後もプログラムがあり、21時から懇親会というのも嬉しかった。
初対面の研修生と話すのも楽しい。1日目は二次会まで参加、日本対カタール(アジアカップ準々決勝)が1対1までは知っているが、後は楽しく語り合っていた。

2日目は、懇親会の酒が残っており、鎮痛薬を飲んで競馬場方面に向かって走った。約30分で引き揚げ、研修会モードで集中した。3日目に精神科の先生に模擬講義をするという。緩和ケア概論やがん疼痛の評価と治療は以前講義をしたことがあったので、「呼吸困難」の項の模擬講義担当にしてもらった。実際に指導くださったS先生やO先生の実に爽やかな指導ぶりと、研修生の熱心な取り組みに感動した。もっと工夫してわかりやすく伝えたいという本気モードにしてもらえた。2日目の懇親会は精神科の先生方と合流したが、二次会には参加せず、直ぐにベッドに潜り込んだ。

3日目は5時起床。年をとる?と早く寝た分早起きとなる。1日目にH先生が千葉まで走ったと言われていたので千葉街道をひたすら千葉市に向かって走った。往復90分、これで3日間で約20Kmは走ったようだ。午前中は模擬講義、昨日の練習とは別人のように講義をしている仲間たちを見た。皆良く勉強し、自分の物にしていた。自分も頑張ったが、時間配分が難しかった。午後は精神科の先生からBad Newsの伝え方のロールプレイの指導を受けた。最終の60分間の講義では、さすがに疲れて頭はかすんでいた。

修了時アンケートを記入後、終了証書授与。自分のクループ代表のM先生が修了書を企画責任者のTS先生から授与される時、うれしくて涙が出そうだった。いかがでしたか?TS先生からインタビューされた時、「このような研修会は1泊2日ではなく、すべての受講者が2泊3日で受けるべきではないでしょうか・」と答えてしまった。済んだから言えたのだろうが、本当にそう思う。タフだけど・・
この研修会のもう一つのテーマは「おもてなし」家路に向かう我々をファシリテーターの皆さんが全員並んで見送ってくださった。感謝。

飛行機の出発が遅れ、帰宅したのが22時半だった。自分の受け持ち患者さんを3日間も診てないので、月曜は十分時間を取って話し合った。

2011年1月18日火曜日

なるほど

 当直明けの今日は熊〇総合医療リハビリテーション臨床工学科の講義の日。講義中に焼酎のお湯割りとお湯のお湯割りの見分け方を質問した。正解は1月13日のブログにあるようにお湯のお湯割りは湯気が多い。なぜならば温度が高いから・・・のつもりだった。
 ところが質問した同郷のN君はどうやら、対流の動きが見えることを言いたかったようだ。彼の答えを証明すべく、もう一杯のお湯割りを作って写真に写した。
 確かに少しの動きが見えた。写真では判らない。正統なお湯割りは、熱いお湯を先ずコップに注ぎ、次に焼酎を注ぐ。温度の高いお湯が上に上る。すなわち対流が生じる。
 来週講義に行ったら、N君の出席簿に◎をつけよう。
クリニカルクラークシップで来ているS君と5時過ぎから走ろうと準備した。が、17時からの会議を思いだし、急遽キャンセル。ごめんS君。明日か明後日は今日の分まで走ろう!